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Channel: 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
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国家の戦争は暴力でしかない

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国家の戦争は暴力でしかない

 

 ロシアがウクライナに武力侵攻を始めた。ロシア大統領のプーチン氏は柔道家・武道家だということで好感を持っていたが裏切られた思いである。

 

 欧州の武人で戦争論を著したクラウゼヴィッツは「戦争とは他の手段をもってする政治の継続」と述べた。一方、我が国の武人である徳川幕府の武芸指南役、柳生宗矩は「万人を救うために一人の悪を殺すために武はある」というような趣旨のことを述べている。また、古の武人の中には「破邪顕正」と武を喧伝する者もいた。

 

 私は、どんな理由、正義があろうとも国家による武力行使は暴力だと思う。否、国家というものの本質が暴力装置であることの正体を表す事態が、あらゆる武力行使であり、その最たるものが国家による他国家への実力行使であろう。しかし、それは決して選択してはならないことだと思う。

 

 先にプーチン大統領が武道家だと書いたが、私が考える武道とは、決して武力で正義を実行する人間のためにあるのではない。また「破邪顕正」を武道と言うなら、己の自我や感情を抑制することが破邪であると思う。つまり、自我や感情を抑制することが「破邪」であり、その破邪を以て「和」を実現することが「顕正」だと思う。そのような思想を内包するものが日本の先達が用いた道の概念・思想である。

 

 私は、戦争の本質を深く理解し、それを抑制するシステムを構築することは人類にとって極めて有用だと思っている。また、いざとなったら命を捨てても仲間を守るという覚悟と準備を怠らないことに高い価値を置く立場である。そして、その覚悟と準備をしつつ、不断にそれを回避する道を求めて生きるのが武道家・武道人のあり方だと考えている。そして、そのような思想を育むものだけが武道と言ってよいと思っている。だが、そんな武道はどこにもないかもしれない。あるのは、武道の看板を掲げた運動場だけだ。

 

 私は、まだ若い兵士たちが国のために戦争をによって死ぬかもしれないということに強い憤りを覚える。また、戦争では必ず女性や子供が犠牲になる。そんなこと誰もがわかっているのに…。

 

 私も若い頃、ロシアとウクライナを訪問したことがある。一言で言えば、みんな同じ人間である。なぜ、殺しあわなければならないのか。なぜ、傷つけあわなければならないのか。ロシア国内でも女性や老人まで、市民が立ち上がったようだ。残り少ない人生、私の命が役に立つなら、そのデモに参加したい。だが、言うだけではだめだ。本当は知行合一だ。今、私はウクライナの人達に同情する。同時にロシアでデモを行っている人達にも尊敬の念を感じている。

 

 このロシアによるウクライナへの武力侵攻は、我が国のみならず世界中の政治家に対する試金石となると思う。同時に市民による試金石ともなるだろう。さらに言えば、アスリート、武道家の資金石でもある。

 ここ数週間をかけて、私は新しい武道を普及する学校設立の趣意書をしたためていた。学校といっても私塾のようなものである。はじめはインターネット等を活用したり、少数の者に直接説法をすることぐらいしかできない。資金がないので…。その趣意書を書き終えた直後、ロシアの武力侵攻が始まった。だが、今こそ武や武道に関する認識の変革を唱える時期だと思っている。

 

 私が武道を始めた幼少の頃、「力なき正義は無能である」「正義なき力は暴力である」と我が師が語っていた。私は、師の教えを個人レベルでは否定しない。だが、60年を生きてきた私の思想、そして理念とは相容れないものである。そして、どんな正義を掲げたとしても国家の戦争は暴力でしかない、と私は断固、否定したい。また、そもそも国家や集団が正義を掲げること自体が暴力の萌芽に違いない。私は今一度、暴力の本質とは何か、を人類全体で考える時期だと思う。

 

 これまでヨーロッパのみならず先進国は2度もの世界大戦と地域的な戦争を幾度となく繰り返してきた。これは、人間が歴史から何も学んでいないという証拠なのか。また政治家の見識不足なのか。それとも社会システムに瑕疵があるのか。私には答えを見つけられないが、一つだけ言えるのは、これからの武は、決して行使しない武の実現を目指すべきだということだ。それは核抑止のことでは決してない。おそらく、すぐには私のいうことを理解してもらえないと思っている。

 

 そのことを理解してもらうためには、本当の武道思想を普及しなければならない。まずは「勝利」に対する概念を修正し、かつ「勝負」の意味と手段を修正しなければならない。そのことを大まかに述べれば、本当の勝利とは、相手を打ち負かして得られることではないということである。また、勝負には引き分けはないということだ。あるのは両者勝利か、両者敗者である。たとえ手段として勝敗を決めるとしても、それは一時的な評価である、と理解する必要がある。そして、最終的に敗者を作らないシステム・価値体系が必要なのだ。

 

 今回、私はプーチン大統領は西側諸国との綱引きに「引き分け」を想定して、今回の武力侵攻を決断したのではないかと直感している。もし、そうだとしたら、その引き分けという概念を唱えた日本武道の教えが間違っていたのだ、と私は考えている。

 プーチン大統領の考える「引き分け・戦術」は、概念的に不明瞭な「引き分け」を狙って勝利を得ることであり、私の考える武道思想ではない。私は、その政治的戦術と戦略を認めるわけにはいかない。なぜなら、その引き分け・戦術を認めれば、近い将来、その戦術を真似する政治家が出てくるに違いない。また、そのような志によって成し得た勝利や政治家は決して真の勝利者ではない。そして世界に新たな禍を生じる可能性がある。そして、私の例える「引き分け・戦術」を認める価値観は、やがて全てを敗者にしてしまうかもしれない。

 よって、たとえ長い時間がかかっても、人類の全てを勝者とする思想を構築する必要がある、と私は考えている。その思想は、私の考える武道思想にある。そして、その思想を武人のみならず、政治家、文人までに伝える必要がある。その思想の核は、日本の風土が育んだ「道の力(道徳の根本)」とその思想である。

 

 最後に、武道は他を殺す人間を作る手段ではない。他を活かす人間を作る道が武道だ。だが、自称武道家たちは、それを言えるだけの生き方をしているのだろうか。かくいう私も同じである。故に毎日が恥ずかしい。

 

 

 

 文武一体の道(五行歌)

 

私は思う

人の行為は

つまるところ

全て「文」

だと

 

「文」の役割は

意味を紡ぐこと

そして

自我を認めて

全てを許し活かすこと

 

 

私は思う

正義を掲げた

「武」も

行使すれば

暴力でしかない

 

私は

暴力には暴力で

対抗するしかない

現実が

悲しい

 

 

本当の「武」とは

「文」を根本とした

文武一体の道

愛と和の

実現である

 

(心一)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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