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Channel: 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
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柔道家、山口香女史を応援する〜その3

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前回、「このままでは、女子選手と山口女史は、見殺しになるかもしれないと、危惧している」と述べた。

どうも日本人の判断基準は、情緒・感情をベースにしているように思えてならない。また、日本人は、それを日本人の美徳と思っているようだ。

例えば、過ちに際し、日本人的考え方の典型に、「罪を憎んで、人を憎まず」というものがある。この言葉に現れる、多分に情緒的な判断基準は、日本人のバランス感覚の現れでもあるが、私の好みではない。


先述の言葉の背景にある、思考パターンについて考えて見た。大体、以下のようなパターンになる。

その①「罪を憎み、人も憎むという考え」、その②「罪を憎み、人は憎まないという考え」、その③「罪を憎まず、人を憎むという考え」、その④「罪を憎まず、人も憎まないという考え」というように。勿論、4つの考え方のみならず、それぞれの中間的な考えの人もいるであろう。

何を言いたいかというと、先述の考え方、すべてが、感情を基盤にした判断基準であるということだ。


私も感情に左右され易い。例えば、心の状態が良くないときの判断基準は、①の「罪を憎み、人も憎むという考え」かもしれない。

しかし、心の状態が良いときは、先述の考え方、すべてを否定する。そして、先述の例に従えば、「罪を憎まず、人も憎まないという考え」で物事を考える。

その意味は、「感情をひとまず、脇において、なぜそうなったかを徹底的に考える」という事だ。つまり、自分の感情も相対化し、その上で、何が原因か突き止めるのである。

それは、二度と罪を繰り返さないために必要だと思うからだ。補足を加えれば、“罪”という概念の設定にも、問題があるかもしれない。そこも徹底して考えなければならない。

断っておくが、私もすべての問題に関して、そこまで考えるということは、しないかもしれない。しかし、事が重要だと思えば、徹底的に考えなければならないと思っている。

誤解を恐れずに言えば、今回の女子柔道選手、15名の訴えは、バスケットバール部の体罰の事件や女子柔道部員に対する、セクハラ問題がなければ、内々で話はもみ消され、うやむやにされたはずだ。

ただ、それは柔道界に限った事ではないだろう。


問題をオープンにし、事を大きくすれば、世間的評価が落ちる。誰もが避けたい事である。しかし、そのような傾向が続けば、必ず組織は、いつか腐敗する。

国も然りである。現在の平均人生は80年前後、その単位では、それが実感されないだけの事だろう。もし、人生が200年あれば、必ず、そこに原則のようなものが実感されるはずだ。
しかし、かく言う原則とは、絶対の法則ではないと思う。自覚さえあれば、調整可能な事だ。


私は、人間が如何に間違いを犯し易いかさえ自覚し、絶えず、それを意識できれば、かなりの過ちを回避する事ができるのではないかと思う。さらに、小さな問題が大きな問題に移行しないよう、その芽を摘み取り、軌道修正できるはずだ。

そのためには、物事を絶えず相対化し、論理的に考える事だと思う。

再度、アスリート論を述べさせていただくと、アスリートに求められるのは、身体能力や芸術的な身体表現だけではない。競技に勝利するためには、高度の判断力も必要とする。そして、それらを養成するためには、絶えず物事を相対化し、科学的に物事を考える事が重要であろう。その上で、それを超越するかのごとく、限界に挑戦していく。それが、アスリートのあり方だと思う。また、そのような挑戦を通じ、得られる人間的成長をスポーツによる人間教育というのだと、私は考えている。


【日本的メンタリティー】
今回、声を上げた人間は、今後10年は冷や飯食いとなるかもしれない。

私は部外者ではあるが、そんな理不尽を見逃せないという気持ちで、今、ブログを書いている。

同時に、「部外者ではあるが・・・」という前置きをして意見する、そんな日本的メンタリティーが、そもそも良くないと思っている。また、そのようなメンタリティーが、この日本社会に充満していることが、この問題の本質に繫がっているのではないかとさえ思う。

さらに言えば、「部外者は意見するな」「何もわからないくせに」、そのような感覚が日本人には強いのではないだろうか。


私は、そのような考え方を革めるべきだと考えている。なぜなら、公共的な組織は、絶えず外部・他者に開かれていて、それとの相互補完、相互作用で発展力を強化していかなければならないと思うからだ。

おそらく、日本人と日本社会に封建時代の刷り込みと偏見、排他性が、いまだ残存しているのではないだろうか。また、伝統や文化という言葉で、それらがカモフラージュ、美化されているからではないかと思っている。それを日本的メンタリティー(日本という地域生活者の心理的状態)と仮に言っておく。


しかしながら、そんなものと、本当に大事にすべき伝統と一緒にしてはならない。その正体は、村八分に対する恐怖と異端に対する排他性なのだから。そのように言えば、言い過ぎだろうか。

私は、伝統を継承するとは、伝統という概念がもたらす価値を、権威化し、利用するというようなことではないと考えている。

私が考える、伝統を真に継承するとは、古い言葉だが、百尺竿頭に一歩を進めるような覚悟で、絶えず自己変革と技術革新を行うことだ。そして、絶えず進化し、他者をリードすることだと思っている(伝統については、今後、再考したい)。

【山口女史の本音】

山口女史は、2月10日の読売新聞のインタビューで「アスリートの声が全く挙らないことが不思議だ」と、つぶやいていた。私は、その言葉に、彼女の本音を感じる。また、心を外部に開き、自分と異なる他者をリスペクトするという考え方に共鳴する。

おそらく、アスリートからの声が挙らないのは、私が長々と書いてきたように、アスリートも又、典型的な日本的メンタリティーの保有者だからだ。

もっと過激に言えば、日本のアスリート達の多くは、斯界という村から村八分にされるのが怖いから、言いたいことが言えないのだ。


我が国においては、為政者が秩序形成に利用した、儒教思想の中に存在する、上下身分の思想が、今も私達のこころに深く刻み込まれている。

「弟子が師に意見を言うこと」「身分の下のものが身分の上のものに意見をいうこと」「女性が男性に意見する事」等等、それらはすべて、してはいけないことである(本当は様々な儒教思想があるのだが、一般的なイメージとして)。

つまり、そのような意識による弊害とコミュニケーション能力の不足、それらを併せた信頼関係の不足等も原因の一つであろう。

数百年前の日本では、上下身分を超えて、意見をしようと思えば、命懸けであった。それを伝統、美徳だという考え方は、もう止めにしよう。かといって、自分の能力不足を棚に上げ、不平不満を回りのせいにして、すぐに不満を述べるのも良くない。

しかし、ひとつの提案として、画一的な教育方法や指導方法を見直し、多様かつ普遍的なアプローチ方法を考えること。同時に、他者との活発な意見交換を可能とするための、意見交換のルールを考えて見るのも良いと思う。

私は、知識人を含めたメデイアの方々に対し、実験的でも良いから、新しい試みを行なうという地点に、我々、大衆を導いて欲しいと言いたい。




$増田章の『身体で考える』


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