わずか3手先を読むだけ〜拓心武道論 その1
拓心武道メソッドに関する小論をかいた。重要点はその2だ。まずは序文として…。
【組手は相手と対話するように】
空手修練における組手稽古は「相手とのコミュニケーション行為だと考え、独りよがりにならないように…」。また、「組手は相手と対話するように」と門下生に伝えてきた。だが、そのことの本当の意味が門下生に伝わっていないということが明確になった。もし伝わっていたなら、顔面突きあり組手も難なく順応はできるはずだ。もちろん新しい組手法には新しい技術の習得が必要なので、その習得に少し時間が必要だということはわかっている。
【武道修練のためのOS】
冷静にみれば、何十年も顔面突きなしの極真カラテと並行、て他の空手や格闘技を研究してきた私と門下生の情報量や技能は異なる。PCに例えれば、データベースや処理能力などが大きく異なるに違いない。だが、その代わりに、手探りの修練を行ってきた私と異なり、わが門下生の修練方法は、ガイドされている。具体的には、組手を行うための攻撃技術のみならず防御技術が整理され、かつその使い方が組手型によって示されているということだ。さらに私は、防具組手の修練をより効果的、かつ効率的に行うために、独自の防御技術も考案した。補足すれば、組手型とは戦いの局面の原則を習得するための手段である。実は、若い頃の私が欲しかった、武道修練のためのOSと言っても良いものを創出しているだけだと言っても良いかもしれない。そして、私がOSと例えるものが拓心武道メソッド(増田式空手武道メソッド)だ。現在、それを極真会館増田道場の修練体系に組み込もうとしている。ただし、完成には数年の時間が必要だろう。現在、更新と改良を加え続けている。
将来、そのOSによって、手探りの格闘技修練の困難さが改善され、誰もが短時間、かつ、容易に複雑な武道修練を行えるようになる、と私は楽しみにしている。もちろん、そのOSには、今後も多様な武術修練ソフトを加えていくということも想定されている。つまり、システムも進歩、成長していくのだ。
【自分自身の見直し】
ここで私は、極真方式の組手でも実践していた「対話のように組手を行う」ということの再考を門下生に促したい。もし、そのことの意味を真に理解したなら、新しい組手への順応も時間の問題で解決する。現に、それを理解しているものの上達は早いことが実証されている、と言っても過言ではない。ゆえに、うまくできないのは、私の教えを理解していないということの証明なのだ、と思っている。ここで一つ問題があるとすれば、新しいこと挑戦する際に必要な物事の見直しが面倒だということである。なぜなら、新しいことに対峙するということは、それまでの自分に対峙しなければならないからだ。要するに新しいことに対峙するということは、自分自身の見直しを迫られる。そして、「自分自身の見直し」には、他者の眼を持ち、自他の本質を考える想像力が必要だ。それには概念や論理と言った道具が必要である。その道具をもち、新たに使おうとすることが大変なのである。
【自己と対峙すること】
現在、かくいう私も自分自身の見直しを迫られている。そして自分の未熟を痛感している。同時に新たに成長、進歩する可能性も見ている。
私は「自己と対峙すること、そこから始めるのでなければ、自己の成長、そして自己の創出、確立はできない」と考えている。自己との対峙は、まず他者との対立から始まる。そして他者からの逃避、他者への反抗、他者への同化、などの反応が生じる。その反応を掘り下げることが、本当の意味での自己との対峙、同時に他者の想像だ、と私は思っている。私はいつもそのようなことを考えて生きてきた。そして、他者に対する自分自身の反応に苦しんできた。
話は大仰になるが、私は他者に対する安易な反応を受容する者は、個の意志を喪失した民衆(大衆)であり、個ではないと思っている。さらに、ここで私は共産主義と資本主義とを比較するつもりはないし、どちらが良いとも言わない。しかしながら、大衆を動員しようとする点では、どちらも同じだろう。そして、そのような大衆動員のシステムは恐ろしい。私は、多様な集団形成なら人間社会に必要なことだと是認しつつも、これからの時代に必要なのは、新たな個の創出だと思う。また、日本の新時代に向けて、有用な個の創出という目標を掲げるなら、古の武人が有していたと思われる強烈な自負と感性が必要だと思っている。その自負と感性を引き出すことは難しくない。日本武術の精神が残っている武道の修行をすれば良いだけだ。だが、ほぼ消滅しているだろう。私は、集団で力をあわせるにしても、もっと個の力を活かす社会システムに戻した方が良いと考えている。そうすることが、古典的な言葉で言えば、鎮護国家、新しい言葉で言えば、高次の共生社会の実現に近づくと思っている。
【軽く組手を行うということが重要なのでは無い】
わが門下生に対し、もう一度言う。軽く組手を行うということが重要なのでは無い。相手(自他)と対話が重要なのだ。そして、顔面突きという急所攻撃が無く、また技や技能の良し悪しがわからない従来の組手法では、そのことが伝わらなかったと考えている。補足をすれば、顔面突きありの組手でも、「相手と対話するように」と言うことを意識しなければ、ただ「独りよがりなどつきあい」となる。私はそうならないように枠組み(処理ルール)を作った。それがTS方式なのだ。
もう一つ、現在、わが空手道場は極真空手の原点、護身武術としての原点に立ち戻ろうとしている。そして修練、稽古方法に若干の改訂を加えている。具体的には武器術を修練に加えると言うことだ。ただし、まずは顔面突きありの新しい組手法を習得してからである。その後、有段者対象に武器術を
。その意義は、使うためというより、武道の心を理解することにあると言っても良い。
【極真空手の原点は武術空手】
考えてみれば、極真空手の原点は武術空手だ。だが、そう考えない人もいるに違いない。また、当の大山師範にも曲解するな、とお叱りを受けるかもしれない。だが、今こそ武術空手、そして武術を武道空手とする時代だ。なぜなら、武術の修練者を人間として高次化していくシステムが武道であり、そのような武道が必要な時代だと思うからだ。ただし、本物にしなければならない。もし大山師範が存命ならば、あらん限りの智力と能力を発揮して説得する(大山師範は亡くなる直前、有段者の修練内容に自分が習得した数々の武術を加えていた。時代の空気が変われば、考えもさらに変わったはずである)。
ここで少し脱線すれば、私が新しい試みを行うのは、空手武道には、まだ新しい価値を生み出す力があるからだ。だが、すでに空手には十分な価値があると思っている人達が大勢いるのだろう。だが、私はそのようには考えない。そのように考える者達は太った〇〇○○と言って良い。下手な例え、かつ下品だが…。また、武術、武道家は死ぬまで、狼のような野生を維持しなければならない、と私は思っている。だが、かつて日本に生息したいたが絶滅した狼と同様、真の日本武術、日本武道は絶滅してしまったのかもしれない。これも下手な例えだが…。
【変革の手始め】
話を戻せば、今、極真空手の変革を行わなければ、武道と言えるものとはかけ離れたレベルのものしか残らないだろう。また、さらに分裂を繰り返し、内容の薄まったものしか残らないはずだ。わが道場も、健康維持やスポーツ的に空手道を行う人達も受け入れてきたので、道場方針の急激な変革は、ついてこられない人が出てくるかもしれないとの懸念もあったが、覚悟は決まった。安全面では問題ないし、明確な武道としての方向性と修練体系の骨格が見えている。ここは腰を据えて、長年の懸案事項だった原点回帰、そして変革を断行しなければならないと思っている。なぜなら、これまでより良い武道が生み出せると思うからだ。もちろん、一般の道場生にはなるべくわかりやすいガイドをしたい(変革の提言は、10年以上前、拙著フリースタイル空手でも行っているが、リニューアルして、再スタートしたい)。
その変革の手始めが、防具を使った顔面突きありの組手修練である。防具を使うといっても、軽量で動きやすい防具を使っているので、打撃技のみならず倒し技なども自由に行える。まずは、打撃技の修練からだと考えているが、その打撃技も古臭い打撃技のみならず、ボクシングやムエタイ、古流空手、中国武術の技も取り入れ、使うことも可能な自由な形式のものだ。ただし、当面、他流の人たちと競技などするつもりはない。なぜなら、自分の門下生の技術と技能を高めることが先決だと考えているからである。それにも関わらず、わが門下生はその意味をよく理解できていないように感じる。もちろん、一部の人たちは熱心に取り組み、徐々に理解し始めている。だが不十分だ。私は新しい試みについて来ている門下生の気持ちや期待に応えるため、理論の完成を急がなければならない。
その2に続く
以下:5月25日(日)第5回月例試合の参加者と共に