北斗の人(司馬遼太郎)
ブックカバーチヤレンジ第7回
【北斗の人】
「北斗の人」は、江戸時代後期の剣術家。北辰一刀流の創始者、千葉 周作を描いた司馬遼太郎の小説名である。私は、この本を100人組手の後、1ヶ月の入院生活を送った病院のベッドの上で読んだと記憶する。もう30年近く前のことではっきりとは覚えていない。それまで歴史小説はあまり好まなかった私だが、歴史小説をよく読んだという家内から司馬遼太郎、山本周五郎などの小説を教えてもらった。それからしばらくは、司馬遼太郎、山本周五郎、山岡荘八などをかなり読んだ。
私が初めて手にとった歴史小説は司馬遼太郎の「燃えよ剣」だった。病院のベッドで一気に読んだ。この本は歴史小説の手始めにオススメの痛快な小説である。読後の感想は、人の評価や結果はどうあれ、自己の信念を貫いた生涯がとても魅力的に思えた。その後、次々に読んだ歴史小説は、私に人生の面白さ、魅力を教えてくれたように思っている。
そんな読書遍歴の中、司馬遼太郎の「北斗の人」には、特に心踊らせ、憧憬の念を持った。そして極真空手が精神主義(独善主義的な意味での)ではない先端の空手になることを夢想した。そのころが懐かしい。
さて、千葉周作は江戸時代の後期に江戸で一番の道場を開いていた。その門下生の中には、坂本竜馬、山岡鉄舟、山南敬介など、明治維新に名を残す有名な剣術家が名を連ねている。ここで増田流「千葉周作」の紹介をしたい。少し妄想が入っているが御免。
【増田流「千葉周作」の紹介】
千葉周作は、我が国の封建時代末期、多くの権威主義で精神論や神秘主義に傾く(要するにこけおどしが多い)剣術家の中にあって、徹底した合理主義者である。
その合理主義は、当時の権威的かつ神秘的な鎧を身にまとった剣術(武術)を誰でも理解できる物とした。千葉の剣術は精神主義ではなかった。あえていえば実証主義であった。ゆえに千葉の剣術理論や心法は現代剣道にも通用する。さらに大きく俯瞰すれば、千葉周作は剣術を人間教育の手段にした。もちろん、それまでの剣術にも芸道としての人間教育的要素はあるが、それは人間教育の手段というより、もはや権威獲得の手段であろう。
千葉周作の剣術理論が提示したことは、剣術は事上磨練、事理一致の修行でなければならないという事である。そしてその業績は剣の修行を人間教育の一環として改良した事にある。現在、千葉周作の興した剣術道場、玄武館は残っていない。その理由は知らないが、後継者が育たなかったことと、江戸から明治と時代が代わり、剣術が一時衰退したことによると推測する。しかしながら、千葉が蒔いた合理思想は、剣術諸流派のリーダーたちに良知を呼び起こすことに貢献したと思う。その結実が、武術の世界では珍しい「全日本剣道連盟の設立」という合意形成なのだ。
断っておくが、私は剣道に関しては門外漢であり、私の考えは全くもって当てにならない。ただ司馬遼太郎の「北斗の人」を読み、千葉のような人間になりたいと思った感動をもとに自分の理想を投影した表現をしているだけだ。残念ながら、あまりにも非力で足元にも及ばなかったが…。とても悔しい。だが、千葉の目指した「北斗」、すなわち真理、理想を目指して、努力してきたつもりである。ここまで続けられただけでも感謝だ。あとは、もっと正直に、かつ真剣に生きてみたい、と願うだけだ。
最後に、本書に私が印をつけておいた箇所をいくつか紹介したい。まずは、キコリとサトリのお化けの話である。この話は、司馬が千葉周作の剣の思想を伝えるべく挿入した部分であろう。また、実際に千葉周作の遺稿にも記されているらしい。タイトルは私が勝手に付けた。
【キコリとサトリという獣の話〜無心の心得(無心の極意)】
「小仏のキコリ仲間では」と与八が言った。
「知られている話だがね。あるキコリが山中で樹を伐っていると、妙な獣がそばに寄ってきて、キコリを嘲笑った」
きこりが驚いて振り返ると。かつて見たこともない異獣なので、生け捕りにしようと思った。ところが異獣には、人の心がいち早くわかるらしく、
「お前、わしを生け捕りにしようと思ったであろう」
と、いよいよあざ笑った。キコリは覚られたか、と思ったであろう」
と、驚くと、
「お前、覚られたか、と思ったろう」
と、移住が言った。キコリはいち早く心中を見透かされるので、
(いっそこの斧でひと打ちに打ち殺してくれよう)
と思おうと、異獣は、
「そら、殺そうと思った」
と、赤い口をあけて笑った。キコリはもうばかばかしくなり、こんな面倒な相手はうちすてておこうと思い、斧を取り上げて樹を伐る仕事を続けようとした。
「あっはっは、キコリよ、こう心を見透かされてはかなわぬといま思ったであろう」
異獣は勝ち誇っていたが、キコリはもう相手にせず、杉の根方に丁々と斧を打ち込む作業に没頭した。そのうち、斧の頭がゆるんでいたのか、ふりあげたとたん弾みで柄から抜け、キラリと空を飛んで異獣の方角に飛んだ。
斧は無心である。無心にかかっては、さすがの異獣も、避けることができない。頭蓋を打ち砕かれ、二言も発せず、即死した」
「その異獣、なんと言う獣かね」
「サトリ(悟り)という獣よ」
与八郎人の話はそれだけである。サトリという獣がどんな顔をし、どんな尻尾を持った獣かは、与八も知らない。
「なるほど」
周作は深い感動を覚えた。周作が生涯のうちでこれほど剣理の深奥に触れた話を聞いたことがない。
(わが剣は、智剣であったかもしれない)
敵の来るべきを未然に察知して瞬時に制圧するのが剣というものだが、周作はその「察知」に智を用いすぎてきたようだった。
(剣客のうち下の下なる者はそのキコリであろう。いちいち企図を察知されるようでは問題にならぬ。なるほどさとりという異獣は敵の企図を察知する点、これはいい。この異獣が、今の私に相当している。しかし)と周作は思った。
(剣客は、その斧の頭でなければならぬ)
以上は、周作が「無心」の心得を教える例えに使った話のようだ。それを司馬は巧みに場面に取り入れている。また千葉は「夢想剣」という極意を伝えているが、我が極真空手にも「夢想拳」という極意がある。おそらく、北辰一刀流の極意を真似たのだと思われるが、少し浅い。
【小説の中で千葉周作が語ったセリフ】
「剣は理から入る方が良い」
「剣は理である」
「剣の扇は、ついには相討ちである。春斎は生き延びるつもりがなかったために、剣士が生涯かかって到達しうる心境に、一瞬で到達した」
それ剣は瞬息
心気力の一致
「呪術の誕生(岡本太郎)」
最後に愚痴を。若い頃の情熱が懐かしい。何も無かったのだが、無いからこそ掴もうという情熱があった。今も多くは持ってはいないのだが、僅かに掴んだ物(得た物)を離すまいとしていて、何かを握り続けているから掴めなくなっているかのようだ。
その握りしめているものを離せとは言わないが、そのことが邪魔になっているような気がする。だが、多くの人の人生も大なり小なりそんな感じだろう。今回でブックカバーチャレンジを終わりにしたい。余裕があれば、じっくりと本を読み、丁寧に書評などを書くのも悪く無いかもしれない。子供の頃から本に囲まれて生活したい、と思ってきた。いつかそんな余裕が出てくれば幸せだろうなと思っている。実は今回、最後の本をどれにしようか迷った。何冊もの候補があったが、私が憧れる芸術家、思想家の岡本太郎の本を一冊だけ挙げておく。岡本太郎は画家であると同時に文筆家のようだ。何冊もの著作がある。そのどれも面白い。その中から「呪術の誕生」を紹介したい。この本は変な本では無い。要する岡本太郎の芸術論である。その内容にはとても触発される。
もう一つ、これから緊急事態の継続への対策を考えなければならないが、政治家と行政、感染症専門家と医師、メディアと経済人の連携が悪い。なんでもっとチームプレーができないのだろう(チームプレーになってる?)。とても不安な生活がこれからも続くと思うと憂鬱である。
リーダーが「持久戦」を意識するのは良い。だがそれを国民に強いるのは良くない。歴史を見てみろ。我慢は重要だが、我慢できるのは理想を信じているからなのだ。また、国民が政府からの愛を感じればこそ頑張るのだ。本当の意味で国民の命を護るということを政治家が解っているのだろうか。また、いまの日本に理想はあるのか?これまでの日本にはそれが本当にあったのか?もしかすると、それを考える機会ではないのか。
【このブックカバーチャレンジへの参加方法】
・好きな本を1日1冊、7日間投稿する
・アップするのは表紙画像だけでよく、本についての説明を書く必要はない(書いている人もいる)
・毎回、投稿するごとに、1人のFB友達を招待して、このチャレンジへの参加をお願いする
・(追加されたルールだそうですが)参加を依頼された人は、気分次第で、スルーするのも次の人を招待しないのもOK