競技について小論
【私とラグビーとの出会い】
現在、我が国においてラグビーのワールドカップが開催されている。私とラグビーとの出会いは、20代前半の頃だ。ジムで知り合った友人が明治大学のラグビー部だった。その友人は現在、ラグビー・トップリーグの監督である。国立競技場に大学選手権を観戦に行ったこともある。当時、ラグビーの大会は、サッカーの大会よりも人気があった。私もラグビーが格好いいとは思ったが、ルールがよくわからなかった。おそらく友人は呆れるに違いない。その私がメディアに乗せられ、にわかラグビーファンとなっている。だが、メディアのおかげで、ようやくラグビーのルールがわかってきた。ルールが理解できると、本当に面白い。何事も同じかもしれない。
少し脱線すれば、実は、ここ10年近く、私は新しい武道スポーツの創作に多くの時間を割いてきた。初めはフリースタイル空手という競技だった。誤解を恐れずに言えば、それは失敗作だった。しかし、そのおかげで、様々なスポーツのルールとその本質を研究できた。その研究を生かして、ヒッティングという新しい武道スポーツを考案した。それを披露するには、まだいくつかの課題をクリーヤーしなければならない。時間や気力、体力、そして経済的にも私の遺作になるだろう。
【メジャースポーツの魅力】
話を戻せば、ラグビーのみならずサッカーもW杯は世界的に人気があり、個人的にも大好きなイベントである。私は、その様なメジャーなイベント、スポーツには普遍的な要素、必要十分条件が備わっていると考えている。詳しくは、現在書き進めている論文に記したいが、メジャースポーツの魅力を大まかに述べたい。
まず、する者(競技者)のみならず見る者(観客)にとって競技の魅力がわかりやすく示されていること。具体的には、ラグビーなら「巨漢同士がフィールドと走り回り、ぶつかり合う、その迫力」。さらに「ボールをキープしゴールを決めるためのテクニックとスキル」。もう1つ付け加えれば、「巨漢のみならず、比較的小柄な選手も参加できるという点(多様な個の可能性とチームプレーの物語)」。サッカーならラグビー同様、「ボールをキープしゴールを決めるためのテクニックとスキル」。さらに「巨漢のみならず、小柄な選手も比較的参加しやすいという点(多様な個の可能性とチームプレーの物語)」
もう一つは、「ドリブルやパス、そしてシュートのスピード」でだと私は考える。
さらに言えば、その様な要素、魅力を基盤にした競技の世界大会を開催できれば、ナショナルアイデンティティーの喚起という要素も魅力に加わるかもしれない。また、世界中の多様なバックボーンを有する人間の参加。すなわち、多様な国籍、文化、価値観を有する人間の相互理解の契機、手段という社会的価値が高まり、競技者の自己実現を後押しするだろう。そのことは、競技選手のモチベーションとなり、かつ競技を文化的公共財としての価値まで押し上げる。
【理想の空手競技の魅力】
ここでメジャーな空手競技が存在するとしたら、という想像で書いて見たい。一つは「巨漢が突き技や蹴り技を巧みに操り、相手の身体にダメージの認識を与える迫力」さらに「防御と攻撃が巧みで、違いの攻防の中で生じる、針の穴の様なスペース(隙)を見つけ出し、其処を衝くスキルの卓越性」。もう一つ付け加えれば、「巨漢の競技者に身体のサイズで劣る競技者が技術とスキルの卓越性で対抗できるかもしれないというロマン」である。残念ながら、現時点での空手競技はそうなっていない。
要するに、多様な人間が全知全能を発揮し戦う、メジャーな世界スポーツは面白くなる原因があって面白いのだ。言い換えれば、スペクタクル性、物語性(人間理解のための)、卓越した技術、創造的なスキルなど、知性、感性を刺激する、全ての要素が卓越しているから面白い。
もちろん、競技が世界に正しい形で普及していることが前提であるということはいうまでもない。しかしながら、鶏が先か卵が先かわからないが、私はその魅力の根本要素を把握しているか、大事にしているかが、今日の発展の分かれ道になっている様に思う。
【大西鐡之助】
実は、ラグビーW杯の日本開催とメディアのおかげで、ようやくラグビーのことが理解できてきた。やはりメディアに取り上げられ、頻繁に意識するということは、理解すること、理解されることのためには、必要条件だと感じている。改めてラグビーの面白さがわかった。そして多くのことを学んでいる。
先述したように、私はこれまでラグビーのルールをよく知らなかった。だが、日本のラグビーの草分け的指導者である、早稲田大学ラグビー部監督、大西鐡之助先生のことは知っていた。なぜなら、私は本好きで多くの本を読んできたからだ。その中に大西鐡之助先生の「闘争の倫理」という本がある。その本には付箋が多くつけられ、メモ書きがある。その本を初めて目にしたのは、極真会館が分裂した後だったと思う。私はその考え方が極真空手にもあてはまると歓喜しながら読んだ。当時、禅の思想、仏教哲学のみならず西洋哲学などに傾倒していた私は、大西先生のスポーツ哲学とも言える理論に衝撃を受けた。また、大西先生の著書には大西先生の盟友である判先生などとの対話記事があり、それらも哲学的で強い共感を覚えた。「闘争の倫理」の読後も、私は哲学、仏教、社会学、文化人類学など、分不相応の著作と格闘してきた。その読書体験が大西先生の読書遍歴と重なる部分が多いのは、最近、闘争の倫理の文庫本を手に入れ、再読して気が付いた。
【私が空手に求めているもの】
私が空手に求めているものは、大西鐡之助先生がラグビーに求めたものと同じだと言っても過言ではない。今、断言できる。端的に言えば、人間教育とリーダー教育、そして人間性の回復と賛歌だ。
だが、私にとっての大きな問題は、空手競技がラグビーの様に哲学を反映した人間教育、そしてリーダー教育にふさわしい競技になっていないところにある。断っておくが、ラグビーは英国で生まれ、英国の貴族階級の子弟のリーダーシップ教育にふさわしいものとして発達したものだ。
一方の空手は、空手自体は哲学的な部分がないとは言えないが、全て後付けだというのが私の見解である。極論すれば、空手はスポーツではない。そして武士が始めた武道でもない。芸能の派生形だ。そう書くと反論が出るに違いない。ゆえに、競技に関しても、英国の知識階級が考案したラグビーのような哲学的、かつリーダー教育的な部分が希薄だ。
翻って、空手競技は格闘技、武術であり、戦う技術を競うものだと言われれば、長い時間をかけて論破を試みなければならないだろう。しかし、それは機会を改めるとして話を進めたい。
【増田の戦術理論】 その4へ続く