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Channel: 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
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世界大会とは何か? 未来の極真空手へのメッセージ  その2〜場所

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【自分のために】

 

 「日本のために何かを行う」「誰かのために何かを行う」、どちらも尊いことだと思う。それでも「自分のために」ということが基本ではないか、と私は考えている。なぜなら、チームの力が一つになった姿をスポーツでは賞賛する。メディアはそのことを素晴らしいことだと喧伝する。私もその姿を素晴らしいと思う。確かにチームスポーツでは個の力を一つに結集しなければ勝利を得られない。一方、個人スポーツでも個(自己)が有するあらゆる力を結集し、他者の戦術を封じ込め、勝利しなければならない。それを理解している者は集団のチームプレーも理解、実践できると考えている。だだし、優れた理念とシステムの下ならばだが。要するにチームに所属する個が信頼をベースに交流し、力を合わせる。また、個が有する様々な力を理解し、協働させる。その感覚は、高度なチームプレーを実現するために必要な根本原理なのだ。

 

【真にチームに貢献できる人間】

 話を進めれば、「日本のために何かを行う」「誰かのために何かを行う」ということも、畢竟、「自己(自分)の有するものを深く自覚し、それをより善く発揮すること」で成し遂げられることなのだ。同時に、より善く自己(自分)の有する力を発揮するとは、他者のためになるというゴールに繋がってこそ真実になる。そのことを理解できる者(個)が、チームプレーにおいても、真にチームに貢献できる人間だ、と私は考える。それを自覚していない個の行為は、自我の充足のために行う利己的な行為だと思う。

 つまり、私の考える「自分のため」とは、自然、他者に生かされている自分を、最高レベルで自覚し、それを磨き高め、かつ生かすことだ。言い換えれば、さらに言えば、自分を最高レベルで生かそうと考えた時に自然、同じ意識を有する他者の個体(個性と能力)と協力すれば、より強大な相手に立ち向かうことができるのではないか。そのように考えた結果が人類の歴史にも垣間見える。つまり、チームプレーは人類の叡智でもあるのだ。

 しかしながら、先にあげた国と国が、人間と人間が殺しあう戦争の際、そのチームプレーとは一体なんなのか。ということを私は考えてしまう。そして、その答えを捜すキーワードが「自分のため」「自分を最高に生かすため」というキーワードだ。まずそれを起点に考える。おそらく全ての人が自分を最高に生かすためには死にたくないだろうし、殺されたくないだろうし、他者から恨まれたくないだろう。私が言いたいことは、自分以外の他者を尊重する。その考えを起点にしなければ、個を最高に生かすということはできないということである。同時に協力する他者(他個)に対してのみならず、自己(自分)を尊重できなければならない。なぜなら、自己(自分)を尊重できない者は、長期スパンで見た場合、個(自己)が有するあらゆる力を結集することはできない。そして、「エゴ(自我)の充足」でしかなかったとなるだろう。

 

 【眼差し】

 ここで少し脱線するようだが、日曜日に行われた私の道場の交流試合の話をしたい。土曜日の11時過ぎに道場に戻った時、師範代の秋吉が交流試合の備品の積み込みをしていた。秋吉も通常の稽古指導にあわせ、試合の指導、準備と大変だったに違いない。私は監督するだけの立場だが、選手のみならず運営スタッフ、また応援する選手の家族ら尽力に敬意を持ち、それを眺めていた。その眼差しは、交流試合の前日に参加した極真会館の世界代表選手と選抜メンバーの合宿においても同じだった。その意味は、極真会館の合宿においても、選手とそれを支える師範、先生、他の尽力に対し、私は敬意を持って眺めていた。ただし、私もセミナーの中ではプレーヤー(アクター)だったので、松井館長がその眼差しを持って合宿と私を眺めていたのだろうと思う。誤解を恐れずに言えば、私の姿は見えないほうが良い、と思っている。だが、見えなくとも影響するものを作りたくて私は生きている。その意味がわかる人は、すぐにでも心友になれる。畢竟、私が創り上げ、残したいもの。言葉で言えば、100年以上のこる価値観、勝負哲学、武道哲学と言っても良い。繰り返すが、私は人前に出たくない。なぜなら、誰よりも高尚なことを考え、かつ言いながら、人前に出ると醜い姿を晒すような気がするからだ。

 そんな私の「思い」がほとばしる瞬間があった。それは、交流試合の最終試合 最中、バックヤードで談笑してうるさかった協力道場の生徒たちによって、私の「思い」が増幅されたことによる。うるさくした者たちに対する怒りではない。交流試合を準備した者たち全ての人達に対し、「何のために行動するか(試合をするか)」と言う答えだった。そして「世界大会とは何か?」という問いの答えでもあった。

 

【閉会の挨拶で】

 閉会の挨拶で、私は「国のために戦うのではなく、自分の誇りのために戦うのだ」と言った。口が滑ったが、「ナショナルアイデンティティーの前に自らのアイデンティティーの確立のために全力を尽くせ」と難しい言葉を使ってしまった。そう言った後、「自分を大事にして欲しい」。また「自分と向き合う、そのことで自分の周りにいる家族のみならず、この場所にいる相手、仲間達のことも考えられるようになる」。そして、そこから周りの人達や自分が生きる場所に感謝できるようになる。その感覚が社会や国を愛する気持ちに変わる。「皆さんには是非、自分に誇りを持てるようになって欲しい」「私は空手をその手段としたい」と私は言った。

 

【自分とは何か?】 

 交流試合の総評で私が言いたかったこと。それは「自分とは何か?という問いかけ」を空手という手段を通じて、深く行うことが大事だということだ。さらに、まずは自分自身との対峙、その行為が重要だが、自分自身との対峙とは、実は目の前の他者と対峙することに他ならないと言うこと。そして、自分自身のことを客観視できるようになると、自分の周りのことを考えられるようになる。言い換えれば、他者を通じ自分と対峙する。その深い対峙を通じてようやく自分を存立させてくれた父母のこと家族のこと、仲間のこと、そして社会、国のこと、ルーツ(根っこ)が考えられるようになるのだ。もう一つ、親であっても子であっても、地位が上であっても下であっても、自己(自分)を深く考えられる者同士が交流すれば、自他とは支え合っているものということが自覚される。ならば、より良い支え合いを目指すことが大事だと思う。そのより良い支え合いもチームプレーではないか、と私は考えている。

 

【世界大会とは何か?】

     ここで、あらためて「世界大会とは何か?」を考えてみる。まず、競技において「個(自己)」が最高のパフォーマンスをしたければ、まず他者と平等に対峙できるルールを有する場所が必要になる。さらに、その場所で相手とより正確に対峙する事が必要だと考えている。

 その上で、相手と自分の関係性を透視し、相手の優位性と同時に自分の優位性をより正しく理解する。さらに、その優位性を生かし、かつ、より良い行動を選択していく。その結果がスポーツでは「ゴール」だ。また、その道筋が見えないスポーツは良いスポーツとは言えない、と私は考えている。これを言ってはおしまいだが、そういう意味では、現時点での空手競技は良いスポーツでない。

 それを無視して話を進めれば、試合規程が定められた優れた競技において勝利するとは、「自他の交流の中で生じる状況に応じ、自己の優位性を生かし、新しい意味を創造すること」に他ならない。

 言い換えれば、「勝利」に真の意味があるのではなく、「勝利の創造」に真の意味があるということだ。優れた競技スポーツにおいて、真に感動を喚起するのは、「勝利の創造」とそのプロセスなのだ。また、その「勝利の創造」を担保し、かつ古から未来まで繋いでいくのが、競技を成立させている「場所」なのだ。ここまで難しいことを書いてきたが、理不尽で納得のいかない点が多かったが、それでも、私にとっての極真カラテの世界大会は、そのような場所であったのだ。

 私の参加した世界大会は、大山倍達師範が一代で築き上げた、言語、宗教、文化、国家の異なる世界80カ国以上の選手(同志)たちが交流し合う壮大な場所だった。そのような場所を創設した、大山倍達師範の業績は、簡単には表現できないほどすごことだと思う。また、その場所を皮膚感覚で感じることができた経験は、私の哲学に強い影響を与えている。ただし、良い面ばかりではなかった。人間の愚かさや弱さを含んでのことである。だが、その様々な要素、感情を経験する中、人間性の真善美を垣間見ることもあった。

 

 【場所の経験】

 場所とは「意味生成の機能」の基盤となるものである、と私は考えている。その「場所」を深く自覚することによって、他所と対峙すると同時に自分と深く対峙する。そして、自他を尊重し合い、それを理解し合う。そのような体験をさせてくれた場所が、私にとっての世界大会だと言っても良い。付け加えれば、「人間はみな同じだ」という感覚を身体に喚起させた場所が私にとっての世界大会であった。

 断っておくが、比較にならないほどの規模の交流試合という場所で会っても、参加する皆がその場所に対する神聖な気持ちを自覚すれば、世界大会に勝るとも劣らない意味が生成されると思っている。逆に言えば、どんな大きな規模の場所でも神聖な気持ちがなければ、どんな小さな規模の場所より、意味のないものになる。

 ここで、私にとっての「世界大会とは何か?」を書いておきたい。それは自分のアイデンティティーの一部だ。そして増田章の自信の基盤かもしれない。自分よりもはるかに大きい相手と力と力、真っ向勝負を体験できた。また、世界中の多様な人々の「思い」を受け取った。今、その「思い」は、伝統という価値を私に感じさせている。

 

 【大きな後悔】

 そのような感覚を感じた時、大きな後悔の念が湧いてきた。それは極真空手の世界大会という自分のアイデンティティーの一部、自信の基盤を増田自身が自ら壊したという声が聞こえたからである。実は、それを書きたくて、この小論を書いていると言っても過言ではない。

 私にとっての世界大会、それは「最高の自分」を表現する場所でもあった。同時に「最高の空手」を目指すのだ、と衝動させる場所であったと思う。さらに、伝統の価値を保存する場所でもあった。

 それは非日常的な場所であるかもしれない。しかしながら、その非日常の場所は、日常における地味な努力と覚悟、そして準備の場所と繋がっている。だからこそ、その尊い日常と尊い非日常を繋ぐ「場所」として重要なのである。その尊い場所を私は壊してしまった。今、私は命を賭して、増田流ではあるが、自分のやれることを行いたい。

 

【なぜ、空手は発展しないのか?】

 現在、多くの空手流派が存在する。極真会館がするまでは、寸止め空手(伝統空手)と防具空手、そして直接打撃制の極真空手と3つだったと言っても過言ではない。伝統空手や防具空手は私も経験があり、それは優れた点がある。あえて言うが、伝統空手や防具空手以外で、今も乱立している流派の多くは大山倍達師範の創設した極真空手に影響を受け、それを真似して派生していると言って過言ではない。

 ここで私が言いたいことは、伝統空手、防具空手以外で直接打撃制の空手は、大山倍達師範が極真会館、極真空手として統一できていれば、空手界が統一する道が見えたかもしれない、と言うことだ。さらに言えば、私が考える極真空手を最高の空手とするための道とは、極真空手を西田幾多郎先生のいうような「意識の野」、すなわち場所として認知させることである。もし、それができれば、空手界の統一と発展が飛躍的に早まったと思う。あえていえば、現在は遠のいていると言っても良いかもしれない。

 一方で、伝統空手が、競技的にも組織的にも進化し、オリンピック競技としての地位にたどり着いた。空手がオリンピックスポーツとして認知されると同時に文化的公共財として認知される地点に立っているのである。だが、次のオリンピックでは競技として不採用だという。歯に衣着せぬ言い方をすれば、まだ未成熟、不十分な点があるのだろう。他方、極真空手も同様である。武道としてもスポーツとしても不十分な認知のままである。

 「なぜ、空手は発展しないのか?」。愛好者が増え、発展しているではないかという者がいるかもしれない。では、空手は最高の武道となっているだろうか。

 極真空手に限って言えば、最高の極真空手になっていないと思う。その原因は、最高の極真空手を認知させる場所、「世界大会の力」が衰退しているからだと言いたい。また、直接打撃制を真似して乱立する流派の存在の影響もあるだろう。さらに言えば、大山倍達師範が命がけで作り上げた世界大会という場所を破壊した増田章の責任である。また、私同様に世界大会を分裂させた者たち。そして、その場所において恩恵を被った者、また最高の競技者の称号を得た、チャンピオン達の思考停止、怠慢によるものだと思っている。

(その3に続く)

2019ー9−25:一部修正

 


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