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Channel: 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
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イチロー選手と「無用の用」

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イチロー選手と「無用の用」

 

 先日、イチロー選手の引退会見をTVで見た。実は私はイチロー選手のファンである。彼の物腰は、私が幼い頃、映画やテレビのヒーローから得た、ロールモデルと合致する。また、野球人としての彼の生き方からは、実に多くのことを学んだ。

 

 だが、十数年前、知人を介して話をした、スポーツのメディア関係者から聞こえてくるイチローの評価は、よくないものもあった。

 

 おそらく、イチロー選手は日本のスポーツ業界やメディア、ファンをあまり好きではないだろう。少なくとも不勉強なメディア関係者や軽薄なファンは好きでないと思う。もちろん、暴言とのお叱りを受けるのを覚悟で言っている。

 

 もちろん、心を許すメディア関係者やファンも多くいたと思う。しかし、全てではないだろう。また、そんな思いが強くなった時期もあったはずである。しかし、日本人は好奇心が強く、積極的である。そのような面は良いところではあると思う。しかし、一面、軽薄な感が否めない。また、日本人には独特の不寛容、狭量さがある。もちろん、それは一面的な見方であり、土地の広さや文化的統一感の影響下における、日本人の自己主張と他者を評価する際の傾向ではないかと思っている。もちろん、個人的な自虐的、自己分析の傾向によるイメージかもしれない。現時点では完全な分析を展開できない。

 

 かく言う私もそんな日本人の一人であるゆえか、軽薄にも、アイドルに対するかのように、イチローのキャラクターに惹かれる。だが、私が本当に好きなのは、彼の野球の能力のみならず、彼の「ゴーイングマイウエイ」のようなスタイルと哲学にある。その部分に強い憧憬がある。私はそんなキャラクターではないからだろう。ただ、おそらくそう言えば、「違う」と彼は言うかもしれない。

 

 確かに、人一倍気を使い、努力家かつ誠実で正直な人間にも見える。ゆえに、もっともっと上を目指したいと、可能性に挑戦していた若い頃、その面が、性格や行動の特殊性が他人に写ったかもしれない。しかし、それをとやかく言う人間もまた不寛容で狭量なのだと、私は思う。

 

たまたまではあるが、イチロー選手の引退の日の就寝前、私はある中国古典の「荘子」の本を読んでいた。その本は若い頃からの私のお気に入りなのだが、忘れかけてきたので再読していた。

 

「荘子」は「老子」と並び、儒家に対する道家と言われている思想家である。だが、荘子の思想は独特で、道家のみならず、仏教にも影響を与えたと言われている。禅がそうである。日本では老子と荘子の思想を合わせて「老荘思想」と呼ぶようだ。その「老荘思想」をよく表す言葉に「無用の用」と言うものがある

 

【イチロー選手の感性は素晴らしい】

 一つだけ、イチロー選手のコメントの中に、「無用の用」に通じるものがあった。イチロー選手の感性は素晴らしい。それを実感し、体現しているから。また、イチロー選手の築き上げた実績は、「無用の用」を知っているからこそである、と私は直感した。

 

 さらに言えば、私の直感では、無用の用を身体で知っているイチロー選手は、最も監督に向いている人間だ。楽天の三木谷氏あたりがスカウトして、楽天の監督などどうだろうか。一方の巨人は松井氏である。私の妄想だが、そうなれば、日本の野球界が大きく湧くだろう。そのイチロー選手のしびれることばを以下に記しておきたい。ただし、増田式に少しだけ言葉を変えたが。

 

「4000本安打の裏には、8000本の悔しい思いがある。僕はその悔しさに真剣に向き合ってきた」

「その結果が4000本だが、その結果には、あまり興味がない。むしろ、その8000本の体験にこそ大事なものがあるし、私の誇りがある」

 

 老荘が説いた「踏みしめる大地の有用はわずかだが、それ以外の大地の無用がそれを支えている。そんな老子の「無用の用」の教えが、イチローの生き方のなかに体現されていると思った。また、イチローが体験した引退式は、まさしく我が道を貫き通して、幾たびかの辛酸を舐め、かつ、それを乗り越えた人間しか、表現できないと思える内容だった。

 

 イチロー選手は、とやかく言うものに対し、いつも我が道を貫き生き続けた。

そうして、日本を離れ、ゴーイングマイウエイを貫きながら、一際大きい大木に育った。その大きさを例えるならば、日本野球が存続する限り、多くの野球ファンの心を休める木陰になるだろう。比類なき大木、イチロー選手に大きな感動を与えられた。ありがとう。

 

【増田 章は無用な人間】

 

 イチローは有用な人間である。一方、増田 章は無用な人間である(偉そうに師範などと呼ばれているが、本当は嫌いな言葉だ、恥ずかしい)。ゆえに人から相手にされない。だが、そんな無用な私でも、生きる術があると、今、思っている。それが以下の話から汲み取れる。いかに老子ではない荘子の「無用の用」のたとえ話を掲載したい。

 

 数ヶ月前、不器用だが真面目なシングルマザーの妹を励ました、たとえ話は、荘子に出典があった。私は記憶力が低下しているので自信がなかったが、今回、荘子を読み返して、改めて私の記憶に間違いはなかったと思った。今、私はおばけ大木になろうと思っている。そうして、痛い膝をいたわりながら、日々、金にもならない無用な研究を続けている。

 

 

 【お化け大木の謎】

 

 南伯子綦《なんぱくしき》は商丘地方を旅した時、ひときわ目を引く大木があった。近寄って見ると、馬車千台がその影で休めるほど大きい。

 

「いったい何の木だろう。きっと良い材木が取れるだろうな」と彼は考えた。

 

 だが、振り仰いでよく見れば、枝は曲がりくねって、棟木《むなぎ》に梁《はり》にもなりそうにない。

 

根元を見れば、根が絡まり合って、棺桶も作れそうにない。

 

葉を噛んでみたところ、たちまち口がただれてヒリヒリする。

 

葉の匂いを嗅いだところ、たちまち酔を発して3日ものあいだ苦しまねばならなかった。

 

 

 彼は今にして悟った。

 

「なんとこれは何の役にも立たない木なんだ。だからこそこんなに成長できたのだ。

 

ああ偉いものだ。

 

神人と言うのもこの木のように、無用を有用に転化した人のことなのか」

 

 

 徳間書店 中国の思想第12巻 荘子  「人間世〜お化け大木の謎」より

 

 

 

 

 

2019-3-24:20:00 一部加筆修正

2019-3-21:10:32 一部加筆修正

日本人には、独特の不寛容、狭量さがある。もちろん、それは一面的な見方であり、土地の広さや文化的統一感の影響下における、日本人の自己主張と他者を評価する際の傾向ではないかと思っている。もちろん、個人的な自虐的、自己分析の傾向によるイメージかもしれない。現時点では完全な分析を展開できない。

なお、このコラムは、デジタル空手武道通信 第28号の編集後記です。

 

2019-3-25:以下の修正  

「荘子」は「老子」と並び、儒家に対する道家と言われている思想家である。だが、荘子の思想は独特で、道家のみならず、仏教にも影響を与えたと言われている。禅がそうである。日本では老子と荘子の思想を合わせて「老荘思想」と呼ぶようだ。その「老荘思想」をよく表す言葉に「無用の用」と言うものがある

 


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