11日に上級者と有段者対象の特別稽古を実施した。
北海道と石川県からの参加もあった。私は、楽しい空手修練を目指しているのが、受け手によっては、厳しいものと受け取られているかもしれない。特に、私の指摘が受け手にとっては難解で、楽しくないものかもしれないと、いつも反省する。
今回も「見取り稽古」「初心、忘るべからず」「組手型を基本にする」「相手とシンクロナイズ」など、難解な用語を使った。しかし、それらの用語は有段者のみならず子供達にも十分に理解できると思っている。もう少しだけ時間があれば、より腑に落ちたはずだ。
だが、空手の場合、講義よりも体験で理解することが先決である。すなわち身体で理解するものだとの一般的な認識がある。 だが、あえて言っておきたい。私も昔は空手が下手であった。今も昔と比べれば上手にはなったが、まだ下手だと思っている。ただし、着眼点をより広く、かつ本質的にとった場合は異なってくる。言い換えれば、認識が変われば、空手の見方が変わってくる。さらに、現在、考案中の増田式の修練体系と空手理論をものさしのように用い、今の自分を省察すれば、形(技の)に未熟な点がよく理解できる。私は、道場生に教えるのみならず、まずもって自らの技を速やかに修正したい。つまり、私にとっての組手型稽古は、人に空手を伝える手段のみならず、自らの技をさらに高い次元に引き上げるための手段なのだ。その稽古は、たえず自己の認識の更新。そして技術の修正と言っても良いだろう。
繰り返すが、より重要なことは、型(組手型)を通じ、自分の技を省察するということである。最近は、映像で自分を簡単に観察できるようになった。 補足を加えれば、私の考えでは、能の先達である、世阿弥の残した「初心を知る」という言葉は、自己の着眼レベル(認識レベル)を客観的に知るということだと考えている。
また、私は武道のみならず、芸道、そして全て物事の上達が、「相手とシンクロナイズする」ということ、だと確信している。この理論は、武道界ではまだ誰も唱えているものがいないであろう。私はその境地を目指しているのだが、それを目指せば目指すほど、自己の未熟さが自覚される。同時に恐怖にも似た孤独感に襲われてしまう。