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Channel: 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
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すべては一つに繋がる〜編集後記 第24号

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編集後記 第24号

 

 IBMA極真会館・研究科を発足してから1年が過ぎた。すでに2年目が始まっている。12名の一期生の内、3名が脱落した。脱落といっても、仕事の関係でどうしても時間が取れないとのこと。仕方のないことだ。1期目のメンバーの内、9名が2期目に入ったが、1期目は、私が怪我をした関係で思うようには進まなかった。誠に申し訳ないと思っている。その原因には、わたしの準備不足のみならず、研究科生の能力不足がある。

 

 しかしながら、それを承知で事を進めた。何につけ、高い目標を立てるのとせっかちは、わたしの性癖である。そんな私に、仲間たちは、よく付き合ってくれていると、時々感謝する。私には、努力しているという認識はないが、努力をしていると思うときがある。ただ、努力というよりは、本当は狂っていると言った方が近い。また、もし私が努力をしているとすれば、それができるのは、家族や師範代が私を陰で助けてくれているからだと思っている。そして、申し訳ないのは、私の努力が経済的な結果には繋がらないかもしれないということだ。ただ、私の時間感覚では、私が行っていることは、いつか役立つ時、実を結ぶ時が来ると考えている。その「いつか」を早めたい。そう思うからこそ、一層、私の焦燥感は強くなる。また、私の時間感覚は、一般的には狂っている。誤解を恐れずに言えば、障害者レベルである。おそらく、人からみると、私は何事につけてもマイペースに見えるだろう。それは半分正しいが半分間違っている。

 

 より正確にいえば、私は人とペースが合わないのだ。また、人にペースを合わせていたら、私の成し遂げたいことは、成し遂げられないと思っているのだ。

 

 一昨日の金曜日の祝日、私は6時間ほど、研究家のメンバーと稽古をした。私は、その準備に役20時間を要した。さらにその整理に10時間ほどを要している。 

 

 一体、みんなは私のしている事をどのように考えているのだろうか。時々、考えてみる。また、この1年間、思うようには進まなかったと、私は先述した。確かに地を這うような行進だったが、少しだけ景色が変わった。そして見えるものがある。現在、私は立ち上がっている。そして、ここからは走り出したいのだが、私の身体に故障があるのと資金不足で、歩くことが精一杯である。それも休みながらでないと痛みがある。この話は、私の構想実現への過程の例え話だが、実生活における、私の身体の状態も同様である。そのことに奇妙な感じがしている。おそらく、「無理をしてはいけない」「もっと天地自然の理法を掘り下げろ」という、内なる声なのだろう。

 

【IBMA極真会館空手道の理念】

 本日11月25日、昇段審査を行った。審査会の冒頭、非力で未熟な私が偉そうに、「まずはIBMA極真会館の理念、IBMA極真会館空手道の理念、IBMA極真会館の綱領、武道人の行動指針の4つを踏まえるように」と伝えた。

 

 その中の一つ、IBMA極真会館空手道の理念は「武術の修練による心身錬磨を通じ 天地自然の理法を学び 自他一体の道を修める」というものである。もう一つ、IBMA極真会館の理念とは「修練と修道を通じ、無限の可能性を開拓し、高い人間性を発揮できる心を育む」とあり、人間教育を目的に掲げている。私の考えは、大山倍達先生が唱えた、極真会館の道場訓および極真空手の理念は伝統として承継しつつ、団体として、より具体的かつ時代に適応した理念や綱領、行動規範が必要だというものだ。

 

【すべては一つに繋がる】

 要するに、IBMA極真会館空手道の理念とは、極真空手の道場訓にあわせて、武道修練のなかで、より具体的に意識することを明文化したものだ。本日、その眼目を「増田道場における稽古は、型で始まり型で終わる」「空手道の稽古は全て形稽古である」と私は伝えた。さらに、「基本」「型」「組手」その他、IBMA極真会館空手道では「相対型(組手型)」を重要とすると伝えた。また、それらは別のものではなく、必ず「すべては一つに繋がる」と伝えた(換言すれば、バラバラの事物との認識では、まだ本物ではない)。さらに伝統技と組手技も然り、一つに繋がるのだ、と私は続けた。

 

【私が考える武道はアートであり哲学だ】

 それを伝えるために、私は1000種以上の組手型を創っている最中だと伝えた。1000種以上の組手型などと言えば、初めてそれを聞くものは、増田とは頭がおかしい奴ではないかと思うかもしれない。しかし、いまに見ておけと思っている。「今は、私が見ている世界、構想を誰も理解しないが、組手型とその理論ができたら、少しは理解してもらえるだろう」と言いながら、私はある想定をしている。もし今生きている者が、私のレベルに到達しなくても、理論と技の体系を残せば、後世の誰かが、私と繋がる可能性があるということだ。なぜなら、今の私を真に支えているのは、書物等を通じて繋がった、武道のみならず社会の啓蒙者たる先達の情熱、執念、また愛を感じているからである。ただし、私の武道の到達レベルが、高くなくてはならない。そこが問題ではある。しかしながら、本日の昇段審査会で、参加者に祈るように伝えた。「私が考える武道はアートであり哲学だ」と。

 

 

 

 


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