F氏との意見交換〜武道とスポーツの違いとは?
貴殿の武道競技とスポーツ競技の違いに関する意見について、私も考えてみました。これは私の思索のメモであり、再考を要するものですが、貴殿のみならず、道場性とも共有したいと思います。
武道とスポーツの違いとは
さて、貴殿の考えは、武道とスポーツ競技の違いとは、その技術に内包される「実用性」からくるのではとのこと。確かに武道には相手を殺傷する技術が内包され、その獲得を意識している面があるとは思います。一方、スポーツは、勝利というゴールが目的とされていると思います。そして、その勝利とは、必ず実用性とは合致しないかもしれません。では、武道と武道競技は、本当に相手を殺傷する技術の獲得をゴールとしているものなのでしょうか。また、本当に実用的な技術なのでしょうか。私はいま、どのような技術であれ、その精度と有事に際する実効性(実用性とは異なる)を追求すれば、やはりたどり着くのは、技術のみならず、それを運用する技能と心術の領域に至るという観点を持っています。また、技術面での実用性は、絶えず技術革新があり、本当に有用かどうかはわかりません。一方、スポーツ格闘技において創出された技術にも、人を殺傷する際、実用性の高いものがあると思うのです。しかし、その技術とは組み合わせを有するものなので、一見しただけでは判断できないかもしれません。そもそも私は、人を殺傷する次元を、通常の次元で考えていません。それはここで書くことは控えますが、ぼかしていえば、「人間からはみ出る」ということです。私は、そんな次元を考えるより、より普遍的な有用性という視点を持ちたいと思います。それが「技能」と「心術」です。
私は、技術の運用力である「技能」と「心術」は、武道にもスポーツにも共通の部分だと思います。そう考えると、武道とスポーツの違いは、その「目的意識」と「心構え」の違いだと思います。
その目的意識、ゴールとは、武道が負けない自己を確立すること。ゆえに自分の弱さに向き合い、それを克服していくことが第一義であるのに対し、スポーツは勝利する(勝つ)自己を確立すること。ゆえに自分の強いところ、良いところを見つけ、それを伸ばしていくことにあるということです。
もちろん、武道においても自分の強い面を生かし、それを伸ばしていくことが全くないというわけではありません。一方、スポーツにおいても、自分の弱点を克服することが全くないというわけではありません。
しかしながら、武道における自分の弱さと向き合うということ、また、それを克服するということとは何か。それは、生死を分ける有事に際しては、偶然性も含めて制するような「心構え」が必要となります。その意味は、耳なし芳一の伝説にも現れているように、わずかな隙もなくすことが、生死を分ける有事には必要だということです。ゆえに武道哲学は、畢竟、生死を超越する覚悟を体得すること。また、平時に際し、わずかな兆候もゆるがせにしないという「心構え」を忘れないということに帰着するのです。
一方、スポーツのそれは、有事に際し、自分の可能性を信じ続けること。また、平時に際しても、自分の可能性を信じ続けることなのです。その思想は、絶えず新たな社会規範(ルール)を求める価値観に現れていると思うのです。
現代においては、私が思索するような観点はなくなり、武道修練もスポーツと同じように、自己の可能性を模索する思想に向かっているように思います。その証拠は、そもそも武道とは全時代では、武芸と言われ、士族の出世のための手段、また自己の心身向上の教育手段であったということから伺えます。
また本来、武道が生死を分ける際の技術と心身を養成するものであるのなら、それは門外不出、門弟も増やすことは困難でしょう。なぜなら、その究極の技術と心身は殺人術のものだからです。しかしながら、この件に関して述べるには、歴史資料を調べ、考証しなければならないでしょう。私は、そのようなことに興味はありますが、現代において武道を確立し、生かすためには些細なことだと思っています。私も、武道に内包される原点を個人的には追求しています。しかしながら、それは人には見せるものではありませんし、言葉で教えても無駄でしょう。それは自覚だからです。それよりも、グローバルな世界観を有する現代において、いかに人類の普遍性と独自性を融合、和解させ、真の自覚に至った武道人をより多く養成する思想とシステムを作るかが私にとっての目標です。
私の足下の空手道場でもそうです。なぜなら、本当の武道のエッセンスを伝えようとしても、すぐには受け入れてもらえないでしょう。また、斯界の指導者たちも全ての競技武道が、スポーツ同様の価値観に飲み込まれていることに気づいていないからだ思います。ただ、そのことは決して悪いことではありません。むしろ、競技を避け、神秘主義に陥るかのような武道のあり方は、多様な人間の理解を妨げるものです。はっきり申し上げて、そのような神秘主義の傾向がある人たちは、自分の殻にこもり、共感を妨げる人たちだと直観するからです。一方、現代スポーツのように、自分の可能性を信じ続け、勝利を目指せと言っても、結果が伴わなければ、そこに意味を見出せなくなっていくのは目に見えています。
「今死んでも悔い無し」という境地
ゆえに、私が考える武道の第一の意義は、絶えず自分の弱点と向き合い、それを補い続けることです。それが生き続けることであり、かつ死んで生きることでもあるのです。それはどこまで言っても尽きることはありません。例えば、武術の目的が生き延びることだというのとは、若干異なります。その意味は、生き延びるために自己を否定する(ダメ出しをする、かつ殺す)。つまり、そのような人間が生き延びる者なのです。例えば、自己の保身、そして生き延びることばかりを考えている人間が、武の究極を知るものでしょうか?私は非と言いたいと思います。
私の考える武道
私は、生きるために、自己を変革し続ける者、すなわち自己の弱点を修正し続ける者こそが、武を知る者だと直観しています。それような人間を作る手段が私の考える武道です。そして、そのような努力こそが、自分を信じ、そのアイデンティティを確立することにも繋がります。さらにいえば、その努力が必要ないときが、もしあるとすれば、「今死んでも悔い無し」という境地に至った時でしょう。また、その境地で生き続けることになります。ただし、そんな生き方、価値観を受け入れるには、かなり辛いものがあると思うに違いありません。
しかし、そのような価値観をしっかりと伝えることが、武道の価値を高めると、私は考えています。ただし、私は門下生にそれを伝えられていません。それは私に権威がないからかもしれません。また、世の中の価値観に受け入れにくいプレゼンをしているからかもしれません。
両方の価値観を併立させていく
まとめますと、私はスポーツ的な価値観も受け入れながら、武道的な価値観を生かす。すなわち、両方の価値観を併立させていくことは可能だと思います。平たく言えば、スポーツ的観点からは、自分の可能性を伸ばしていく。一方、武道的な観点からは、自分の弱点を等閑にしない。絶えずそれを克服する努力を続ける。
私は、その両方がバランスを取り並立したならば、スポーツにおいても武道的な観点が取り入れられ、また、一方の武道もややもすると、現実から離れ、神秘的かつ形式的になりがちなところをスポーツが補ってくれると思うのです。
まだ、抽象的で伝わらないかもしれません。より具体的にいえば、私の道場では、修練において「ダメ出し」をします。それは人格否定ではなく、各々が自分の弱点を自覚し、克服するためです。昨今は「褒めることが大切」という傾向になっています。それには、自分の可能性を信じるということを第一にする価値観があると思います。それは人間の成長に必要です。しかし、その両方が必要なのです。私は、自分にダメ出しをするということが必要だと思っています。しかし、そこに客観妥当性がなければならない。それにはスポーツのシステムを取り入れることが良いのです。これまでの武道団体のシステムでは、独善的になるきらいがあります。
誰にも負けないという覚悟
さらにいえば、私は自分の弱点と向き合うこと。しかし、そのことが他者に比べ自分が劣るという結論ではなく、自分の弱点の克服を心がけるならば、誰にも負けないという覚悟が出来ると思っています。そして弱点が良点に転換されるということです。それは、自分の生涯を受け入れられるようになることでもあります。また、それが「今、死んでも悔い無し」という境地に至ることなのです。
おそらく、「自分の可能性を信じ続けること」と「今、死んでも悔い無し」ということが矛盾すると考える人には実践は困難でしょう。私には、その両方が究極的にだと直観します。ここまで書いてきて、やはり私の哲学は理解されないと思ってきました。ゆえに私の哲学は私一人のものとして封印します。それでも、私の哲学に共感する人がいれば、いつか勉強会を一緒しましょう。
追伸
F氏へ〜貴殿からのメールを受け、約3週間ほど、空いた時間に思索を行いました。あまり思索の時間が取れませんでした。ただ興味あるテーマなので、考えて見ました。貴殿の意見を聞き、再考したいと思います。それでは、季節の変わり目、風邪など引かないように。また、武蔵は「全てにおいて勝つこと」と伝えました。それを理解する時、「全てにおいて負けないこと」と置き換えたほうが良いと思います。