デジタル空手武道通信、編集後記より
【開拓者】
今年の2月ぐらいから5月までは、TSスタイルの競技規定作りに集中していた。次に5月から現在に至るまで、TSスタイルの必要性について論文を執筆してきた。その間3回ほど腰を痛め、歩けなくなった。原因は長時間のデスクワークだ。いつものように、家内は「そんなことをしている場合ではないでしょ」といつものように冷ややかである。 しかし、私にとっては絶対に必要なことなのだ。なぜなら、極真空手に対する認識を変えなければ、私の空手道は誰にも伝わらないと思うからだ。つまり、私の空手と他との異なる部分を誰も理解せずに終わる。それこそが、死に値する。
私は自分のために、そして私を支えてくれている、現道場生の本当の自尊心の形成のためにも認識を変えなければならないと思っている。今は理解できないかもしれない。しかし、必ず理解できるときがくる。全ての問題は認識の瑕疵によるものだ。ゆえに絶えず認識の瑕疵を改めなければならない。新しい認識を切り開く者、その者は開拓者だ。言い換えれば、「開拓者とは、未開の領域を普遍化し、その領域を未来の希望へとつなぐ者」である。
ある日の少年部稽古の時、黒帯の生徒と黄帯の生徒の組手をさせた。黒帯の生徒には「絶対に相手にダメージを与えてはならない」「与えたらレッドカードだよ」と言った。私が、全ての道場生に口を酸っぱくしていうことである。 一方の黄帯の生徒の方は、空手が上手な方ではない。しかし、最近上達してきた。組手が始まると、黄帯の攻撃が一発も当たらない。黄帯の生徒は果敢に攻撃をしているが、黒帯の生徒は全てを防御する。そして黒帯の生徒の攻撃が黄帯の生徒に全て入ってしまう。私は黒帯の生徒に「もう少しスピードを落として」と指示した。黒帯はスピードを落としたが、それでも同じであった。 黄帯の生徒の顔が泣きそうになった。それは身体のダメージが原因ではない。心のダメージであろう。
私は黄帯の生徒に対し「攻撃は良くなったね」。「でも応じ技を覚えないといけないね」と、すかさずフォローアップしたが、もう少し指導方法を考えなければと考えている。同時の少年部で起きたことが一般の黒帯と色帯の間でも起きなければならない思っている。
要するに、初級者の攻撃は黒帯に全て見切られ、逆に黒帯の攻撃は初級者に見切ることができない。本来は、有段者にそのような技術と技能が備わっていてこそ、黒帯の価値があるのだ。私の考案したTSスタイルの組手法の確立は、そのようなゴールを鮮明にイメージしている。その上で、初級者にはやる気が無くならならないように、組手が楽しくなるように、と考えている。
本当のスタートは、TSスタイルの組手法の練習体系の明文化ができてから始まるだろう。それには3つの役割を確立することだ。それは、1に競技規定の役割、2に理論の役割、3に修練方法(修練体系)の役割の確立である。これから休む間も無く、作業が続く。先述した、3つの役割の確立が空手道を変える方法である。空手道が変われば、道場生を変えることになる。そして、一人ひとりの道場生が変われば社会が変わる。それは、ささやかな人間教育でもある。しかしそれで良いのだ。何より、私の空手道が自分自身の教育となっているのだから…。
だが、あえて繰り返したい。私の武道理論の中心は、空手武道を通じ人間形成に必要な骨格を作り上げることである。それが私の提唱する武道人の育成の方向性だ。そして、そのような「武道」を創建することが私の人生をかけた悲願なのだ。その上で、様々な学びを取り込んでいく。つまり、私の考える「道」とは、骨格を作り上げる手段、法則と言っても良いのである。そうでなければならないと、武道家の立場で言いたい。もちろん、異なる立場もあっても良いだろう。ただ、学問、道徳、すべては人間の骨格に対する肉付けの部分だ。一方、道とは学問を活かし、道徳を生み出す主体と一体とならなければならないと思う。そのような意味でも空手武道の認識、理論を変えること。それが私の夢である。もう少し、待って欲しい。
いま執筆中の論文は書籍化を目指している。書籍化というと商業出版であるから、”マーケットイン”的な内容にしなければならないようだ。本来は論文としたかった。しかし、論文なら理論を検証するためのデータを上げ、それを分析するような部分がなければならないことはわかっている。しかしながら、私の構想していることは、その部分さえ完備すれば、社会学やスポーツ科学の論文にもなると思っている。もちろん、私にはそのような研究資金がないので、その方向性では執筆していない。そこが中途半端だと言われるかもしれない。改めて、幼少の頃の精神的な病癖を悔いている。また、過ちをいつまでも後悔するところが私の病気の症状でもある。ゆえに私は自分に言い聞かせている。過ちを悔いるエネルギーがあるのなら、あらん限りの力を尽くせと…。