編集後記〜家族との思い出
年末、受験を終えた愚息から家族旅行を提案された。私も賛成だったが、家内からの反対にあい断念した。諸事情は理解できるが残念である。
時にすでに遅しだが、もっと父母と旅行したかった。私の実家は家業を営んでおり、お晦日は元旦の1時過ぎまで仕事。正月は2日から仕事だった。当然、私も手伝いをする。また、毎日夜遅くまで賑やかだった(実はそんな生活スタイルが私は嫌だった…)。そんな家庭の情況だったが、私が父母との数回の旅行を記憶しているのは、父母が家族のことを大事にしていたからだと、ようやく理解できる。
後悔しているのは、父母が忙しい中、寝る間を削り試みた、大阪万博への旅行を私が断ったことだ。その頃の私は、思春期性の悩みが多く、とてもそんな気分ではなかった。家族旅行をしたいなどという我が息子とは、ほど遠い子供だった。そんな私だからこそ、余計に家族への様々な思いが募る。本当に家族があればこそ生きて来られた私だ。そんな思いが実感となって心に迫ってくる毎日である。
そんな体験を胸に、空手道の普及においても家族を大事にするという心を育まなければならないと、私は思っている。それは自分の家族のみならず、他者の家族をも尊重するということでなければならない。ただし、その家族の機能が不十分であったり、壊れているときはどうするか。その家族を離れ、別の家族に所属するという選択肢や家族の機能を補完する機能を創ることを考えるべきだと思う。また、家族とその機能のあり方を啓蒙しなければならないと言いたい。啓蒙などという言葉は時代錯誤だと、ある人から言われたが、私はそうは思わない。時代を問わず、見えないところ、理解不能な面は依然として多くある。むしろ見えていると思っているときが危ない。
今こそ、もう一度、家族、あるいは組織のあり方とその機能を見直さなければならないのでないだろうか。集団主義、個人主義を超えた、新しい人間と社会のあり方を掴むために…。
▼増田家の墓がある野田山からの眺め