増田章の報告2017-12-10
【良かったですね】
先週の月曜日、主治医に腰のヘルニアの経過の診断をしていただいた。
「先生、ご無沙汰しています(増田)」
「どうですか?(増田)」
先生はニコニコしながら
「増田さん、これ見てください(先生)」
「はあ?(増田)」
「ヘルニア、消えてますよ(先生)」
「はあ?(増田)」
前回の画像(MRI)と並べられた画像を見てみると、
ボッコリと逸脱していたものがほぼなくなっている。
まだ少し逸脱があるが、初め逸脱が大きかった分、消滅感が強い(消えたように見える…腫瘍でなくてよかった)。
「良かったですね(先生)」
「今まだ、右脚の痺れと筋力の低下(右脚の力が左脚の約2分の1)がありますが、少しづつ痺れや痛みが軽減しています(増田)」
「あと1ヶ月半ぐらい様子を見ましょう(先生)」
私のヘルニアはL3〜L4のヘルニアで、膝から大腿部(もも)、足の付け根付近に痺れ(神経障害)が生じるものだ。
数種のヘルニアがあるとして、ヘルニアは大体3ヶ月で症状が改善されるというのが、現在の定説らしい。
それにしても、少し気持ちが楽になった。このまま、体力が落ちていく一方の可能性もあると考えていたからだ。
私は、ヘルニアの診断の後、安静の指示を破り、ストレッチ、上半身の筋力トレーニング、下半身を相撲スクワット(相撲の四股の形でのスクワット)、レッグエクステンション、レッグカール、半棒振り(ステッキ術の練習)を日課としていた。
なぜなら、必ず治った後、速やかに空手の教本作成に入れるように体力維持をしておかなければ、治療に費やした時間の2倍から3倍の時間が機能回復に必要になると経験上、想定されたからである。エビデンスはないが、どうもそのリハビリが、ヘルニアを完全に逸脱させ、結果、消滅(吸収)させたのではないか、と言うこと。また、ヘルニアは腰椎の健全なカーブ(S字)を回復させたのかもしれない。とのことだった。
【スポーツによる障害(特に腰や膝、肩も含め)を防ぐには】
いつか私の道場にサイトにきちっと掲載したいが、簡単にお知らせしたい。スポーツによる障害(特に腰や膝、肩)を防ぐには、姿勢の維持が非常に大事だと言うこと。特に空手やスポーツを激しく行うと、腹筋や腰部の筋肉、さらに大腰筋を緊張させ、腰椎や骨盤の位置(正確な言い方ではないかもしれない)や動きが悪くなる。つまり、自分の姿勢を絶えず気にかけた方が良いと言うことである。また、骨盤や肩(肩甲骨)周辺の筋肉のバランス調整に気遣いをすることだ。
現在、日に日に痺れが軽減している。依然として右脚の筋力は低下したままだが、左脚が強くなったのと、右脚を支える臀部(お尻)の力が強くなってきたように思う。ただし、全盛期の体力からは、遥か遠い。あくまで膝の障害により低下した下半身の筋力と機能の回復を促進したのではないかと言う程度である。
【体の動きのイメージが深化】
さて私は、ヘルニアで約2ヶ月、脚も肉離れで1ヶ月、合わせて約3ヶ月、十分な稽古ができなかった。若い時は劣化があっても、回復のスピードが早い。一方、初老を過ぎてからは、劣化のスピードが早まり、かつ回復は遅い。そんな認識のもと焦燥感に苛まれていたが私だったが、良いこともあった。
それは、若い頃にはあまり着目しなかった、体の動きのイメージが深化したことだ(だだし、それがイメージできた時に、体が動かなくなってしまっている)。
そのイメージを簡単に言えば、「体の動きをイメージするには、筋肉を優先にするのではなく、骨の動きを優先させること」と言うことだ。
これは、診察後、お世話になっているPTの佐藤先生にリハビリ治療をしていただいている時、私の認識として確認した。私は理学療法士ほどの知識はないが、だんだんと理学療養士の知識を吸収しつつある。
また空手の動きを考えるに、骨の動きに着目している。もちろん、その上で筋肉(骨格筋)がどのように動き、作用するかを考えている。さらに、そこに脳科学の知見も加味している。そのように考えると、「もっと勉強したい」「もっと実験したい(試したい)」と言う欲望が湧き上がってくる。同時に、自分に残された時間の少なさ、環境の劣悪さに胸が締め付けられる思いである。また、周りからどんどん離れていくと言う感じがしてならない(誰もついてこれない)。
私の悪弊だが、周りに私の考えを理解させようとする。しかし家族も含めて、「私は私」とついてこない。それが自然である。天邪鬼な私は、「ついていきます」なんて、実は信じていない。おそらく、先を行く者の気持ちはわからないだろう。私の感覚は、いずれ分かる時がくるかもしれないが、それでは遅すぎる、という感じである。ゆえにいつも疎外感がある。また、そこに合わせていたら、私の人生が終わってしまう、と思っている。ゆえに先を行く覚悟のある者は、人の気持ちを振り切らなければならないのだろう。人には非情な男だと見られるかもしれない。若い時は、そんなことを考えなかった。また意識せずに先を進んでいるつもりだった。しかし、ちっとも先に進んでいない。ある意味、堂々巡りのようだった。そんな風にも思う。それは、自分の考えに自信がないからであろう。正直言えば、もっと自分の信念を信じたい。しかし、なかなかそれができない。非情な男になりきれないのだ。
おそらく、自分のやっていることが、将来必ず役に立つとの確信、信念が足りないのかもしれない。また、そのような認識で生きると言うことは、「絶対的な孤独」と戦わなければならないということでもある。私は孤独に弱いのかもしれない。一つ言えることは、そのような孤独に立ち向かう者の中にこそ「真の覚悟」があると、私は考えている。
2017-12-10:一部加筆修正