負け方〜道場生に向けて
【印象的だった道場生】
5月3日の交流試合において、印象的だった道場生がいる。その道場生は、中学1年生のクラスで体力のある相手に一本負けを喫しながらも、試合終了後の挨拶で、「ありがとうございました」と大きな声で相手と握手をしていた。
一体、どんな感情が彼の内面に溢れ出ていたのだろうか。私は、一本負けの直後、正々堂々と相手に「ありがとうございました」と礼を尽くすという経験は、彼の人生に必ず、見事な花を咲かせ、果実を実らせると、信じたい。また私は今、そのような経験(学び)を一人ひとりの道場生に持ってもらいたいと思っている。
実は、私は道場生の交流試合の際、いつも苦心している。それは負けた選手にどのように満足してもらうかということだ。普通に考えれば、負けた者は満足しない。ただ、負け方にも様々あり、1回戦に負けるのと決勝で負けるとので感慨が異なると思う。また、判定で負けるのと1本負けとでも同様である。つまり、試合後の感覚(感慨)は一人ひとり、異なるのが本当だと思う。
だが、ここで私が考えているのは、多様な感覚を繋げる普遍的な満足感の得方についてである。中には、満足感などいらない。負けると言うことは、不満足感を得ることであり、それに耐え、それを乗り越えることが、試合経験の目的だと言われるかもしれない。私は、そのような考え方も認めつつ、やはりある種の納得感とでも言い換えたら良いような、満足感を得ることが必要ではないかと思うのだ。
【プロの勝負の世界では】
プロの勝負の世界では、「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という。日本の武人、松浦静山の常静子剣談からの教えである。ゆえに勝負に生きる者は、徹底的に敗因を分析し、それを改善に努める。その考え方、対応の仕方は素晴らしいと思うが、我々が抱える、空手道場生は、勝負の世界に生きるものではない。また、空手の世界にそこまで厳しい勝負のルールがあるとは思えない。それでも、勝負の世界の厳しさの僅かでも体験することが、空手を行う意味だとするならば、反論はしない。
【試合体験における意義】
しかしながら、私は試合体験における意義とは、頭で考えるだけではなく、体で感じること、その経験が全てだと思っている。人間の成長には経験が大事なのだ。言うまでもなく、人間はあらゆることを経験できるわけではない。だが、古今東西の人類のあらゆる経験を文化、文明という大きな樹及び森の果実を得るようにして生きている。つまり、私がここでいう経験とは、一人ひとりが自分の身体と脳を用い、感じ、創り上げていく小さな樹、すなわち自分という樹木の養分(栄養分)としての経験のことである。競技大会では、チャンピオンが至上の勝ちとされているように見えるが、私の主催する小さな競技大会は、一人ひとりが自分という樹を育てるための養分を得られる場としたい。
【子曰く、学びて思わざれば則ち罔し(くらし)、思いて学ばざれば則ち殆し(あやうし)】
そのような気持ちもあって、交流試合前の挨拶が長くなった。3分以内という私自身のルールを破り、5分ぐらいと長くなった演説(挨拶)では、論語の言葉を引用した。私は、「子曰く、学びて思わざれば則ち罔し(くらし)、思いて学ばざれば則ち殆し(あやうし)」、「試合の意義は学びを深めること」だと、ぶった。しかし、いかに論語にある言葉の意味喚起作用とその内容が優れていても、その言葉自体、すなわち記号の意味が理解・共有できなければ、ただの雑音にしか聞こえなかったに違いない。
【学びとは】
私がこの言葉を使い言いたかったのは、「学び」とは人からの話、書物からの学習のみならず、「何らかのルールを基盤としたコミュニケーションと同義の経験が全て学びである」という定義が前提の上である。論語解釈では、学びとは、知識を得ることとしているが、私は、「学びとは経験のことだ」としたかった。補足すれば、経験の中には偶発的な体験も含まれるが、「何らかの知識を元に行動を選択すること」が含まれている。私はその全体を持って学びと考える。おそらく論語読みからは、勝手に解釈を変えるなと、お叱りを受けるに違いない。
【私の身体に意味喚起されるのは】
私が論語を読み、私の身体に意味喚起されるのは、「経験がまず大事ではあるが、それを掘り下げ吟味しなければ、近視眼的な人間になる。また、物事について掘り下げ、よく考えても、絶えず自ら経験(何らかの知識を元に行動を自らが選択すること)積み重ね、それと照らし合わせなければ、独善的な人間になる」という意味だ。
【負け方】
そういう意味で、冒頭に挙げた道場生のような負け方(経験)は、自分という樹に、「思いやりを育む役割を持つ養分」を与えるだろう。そして将来、素晴らし果実を実らせることに活かされるに違いない。一方、勝ちを得たとしても、その経験を深く掘りさげ、その普遍的な部分を活かしていこうとしなければ、自分という樹は決して見事には育たないだろう。また、負けという経験を恐れる生き方は、大切な学びの機会を逃していると言いたい。
【経験、学びを活かせば】
繰り返すようだが、そのような経験(学び)を一人ひとりの道場生に持ってもらいたいと、私はいつも願っている。そして、勝っても負けても、その経験を善く掘り下げ、活かして欲しいと思っている。その先に敗者はいない。言いかたを変えれば、「どんな嬉しい経験も、活かさなければ、いつかそれは負ける種子となる。一方、どんな辛い経験も、活かせば、いつかそれは勝利を得る種子となる」ということだ。
【蛇足】
いつものことだが、蛇足的なことを記す。あらゆることに改善点がありすぎて、ブログの更新などしていられない。しかし、今回のブログで取り上げた道場生のことは、なんとしてでも書きたいと思っていた。交流試合の後、すぐに我が故郷へ帰省したが、先の道場生のことの取り上げ方が閃いたので、「負け方」として書いた。
帰省は往復1000キロ以上の移動距離、一泊2日の行程であった。故郷、金沢での行動は、私を可愛がってくれた祖父母、そして苦労をかけた母の墓参り、身体が不自由な父と不器用が故に愛おしい妹に声をかけること。また、中学の時の柔道仲間と街に繰り出すのが定番である。そこに今回は、昔からの相談相手である友人と会うことが加わった。とても強行スケジュールだったが、私の帰省は煮詰まる頭の中のスイッチの切り替えに必要なことだと思っている。行きは朝6時に起き、ゆっくりと車を進ませた。途中、南アルプス、中央アルプスと山々の景観を楽しみながら、9時間以上かけた。行きは季節、快晴に恵まれ、日本の風土の美しさを再認した。2週間ほど前に北海道の道場を訪問したが、北海道も美しかった。「ああ、日本は本当に美しい」、そんな思いを強くした帰省だった。一方、帰りは6時間ちょっとで帰った。いつものことだが、スイッチの切り替えは、墓参りと実家で父の顔を見ることで終わっている。そして、スイッチを切ったら、スイッチをすぐに入れる。スイッチを入れた時、いつも思うことは、素晴らしい道場生がいる間に、もっと我が空手道を高めなければということである。
訂正:負けに不思議の負けなし〜という言葉は、中国古典ではなく、松浦静山の言葉だった。松浦静山といえば、常静子剣談だったと思う。常静子剣談は、私が敬愛する著述家の是本先生から、先生が意訳された原稿をいただいたことがある。また、その武道観は深く共感するものである。ブログを再読して、思い出した。一応、確認したい。御免。