空手についての雑記です。小難しいけど、掲載しておきます。うざいですね…御免。
【増田流・極真空手の中心的概念〜応じ/稽古日誌 11月17日】
だめだ。
上手く指導できない。
道場生を励まそうと道場に向かったはずなのに・・・。
色帯には優しくできる。しかし、茶帯以上になると・・・。
というのも、上級者が私の最も重要にしている理合を理解していない。
私が最も重要にしている理合とは何か?
それは「自他一体」の理合である。
その理合を子供にも解るように平たく表現した時、「応じ」となる。
「応じ」をさらに子供向けに言い換えれば、「受け返し」となる。そのように伝えれば、「ああ受け返しね…」と理解する道場生がほとんどだが、それでは浅すぎて、応じの概念が伝わらない。また、結局は「応じ」のみならず受けも返しの技も身につかないのが落ちである。
あえて混乱を招く言い方をすれば、応じを換言すれば、コミュニケーション、すなわち自他への応答と言っても良い。
本日の稽古時は、「応じとは相手の攻撃を防御し、間髪を入れずに反撃すること」と、私は道場生に、最低レベル(低い次元の考え方だが基本として認識しなければならないこと)の定義を伝えた。これまで何百回と話し、書いただろうか。それでも残念ながら,伝わらない。短気を起こせば、「老兵は死なず、ただ消えゆくのみ」という気分になる。実際そうしたいが、そこを踏み止まっている。なぜなら、増田が諦めれば、自分が信じた極真空手は単なる幻想、妄想で終わり、今後、どんどん質的低下が進むだろう。断っておくが、私の若い頃の極真空手が素晴らしかったと言いたいのではない。まだまだ、進歩、発展を続けていかなければ、極真空手に人生を賭けた甲斐がないと思うからである。さらに自分の中には、まだ身体で表現できる芸術的な能力があると信じているからだ。しかし、それを未だ表現できていないことの焦りが、心と身体を蝕んでいる。
実は、本日の稽古中に伝えた「応じ」の概念には普遍性があると思っている。例えば、ボクシングやレスリング、また柔道などの格闘技、さらにはサッカーやラグビーのボールゲームなどのスポーツまで通底する勝負の理合だと考えている。
少し脱線すれば、その理合感覚の萌芽は、勝利のため、非力で未熟な自己を最大限に生かす道を追い求めた過程にあった(詳しくは自著に記した)。私は、自身の仮説を試合を実験として証明しようとした。極真空手という競技とは言えないような特異な実験環境では、現出が困難な感覚であったが・・・。ゆえに極真空手の競技環境では失敗を重ねた。数十年も掛かけて日本一を認めていただいたが、御陰で、仮説が証明されない理由が明確になった。しかし、競技による修練では困難なことを100人組手で試した。その体験で極真空手の競技に足りない感覚が何であるかの確信を得た。しかしながら、それでも不充分である。格闘技術は多様であり、それらすべてに通底する普遍的な感覚を私は探求し続けている。その研究のプロセスにフリースタイル空手プロジェクトがあるが、その意義と成果を得るには、まだ時間が掛かりそうである。
「応じ」の話しに戻せば、先日のサッカーの日本対サウジアラビア戦を参照にして欲しい。サッカー評論家たちは、日本のカウンター攻撃が良かったと報じていた。私も見たが、カウンターとは本来反撃のことである。サッカーでいうカウンターとは、まさしく防御から間髪を入れない反撃のことを意味するのだと私は理解する。武道ではそれを応じ技というのだ。そして、さらに高いレベルの応じになると、クロスカウンターということになる。つまり、サッカーでもラグビーでも相手の仕掛け(攻撃)を時にブロックし、時にボールをインターセプト(奪い)、瞬時に相手の死角かつ自己に優位な位置を確保(奪取)しつつ攻撃を加えていくことが、最高の防御法かつ攻撃法なのだ。それをカウンター攻撃といい、応じと言っても良い。アスリート(競技者)は、そのような応じを行うために、フィジカルを鍛え、連携力(組織力・チーム力)を鍛えるのだ。さらに個別の技術(防禦技術・攻撃技術)を磨き、一人ひとりの心眼(予測力・洞察力)を磨くのである。
さらに補足を加えれば、そのような応じ(カウンター)の能力を身につけるには、そのような世界認識(大局観と戦略的視点)が必要である。そして、負けるのが嫌いで勝ちたければ、泣きながらでも、その能力を鍛え磨き上げるという意志を持ち、努力を続ける必要がある。
さて、私の稽古指導法では、組手稽古の基本を約束組手(組手型)による応じの型の反復から始まる。その基本の型をある程度理解してから組手稽古に入るのが、私の40年以上も続く組手稽古の基本形である。
約束組手は、長年の組手経験と研究で、100種以上あるが、本当にしっかりとやらなければと思う約束組手は数十種であろう。しかも、重要なのはその型の全体的な形(動き)では無くて、その動きを支えているような見えない技を体得する事である。その部分を認識する事が一番難しい。残念ながら、そこを認識している人間は一人もいないのではないかと思える位だが。
道場生は、約束組手であらかじめ、将棋の手筋のようなデータをインプットし、それを素に将棋やチェスのように組手稽古を行う。そしてその組手稽古によって応用変化的なデータべースを蓄積し(今話題の AIのディープラーニングのようなこと?)、かつその活用(判断と選択)の回路、システムのようなものを一人ひとりの身体に構築していくのが、私の組手理論である。また、現時点では秘密だが、実験中の理論と組手法がある。それはこれまでもそうだったが、すぐに真似されるので、伏せておきたい。ただ、その真意は、もう少し実験を重ね、その効果と再現性が保証できるようになったら、発表したいということである。
研究と発表のためには、まずは増田道場、研究科の開設だが、それと同時に優秀な生徒(研究者兼被験者)の確保が必要だ。
しかしながら、これまでも、蓄積してきたデータベースの10分の1も伝えられていない。その理由は、極真空手の組手法を堅守しなければと考えてきたからだ。また、そうしなければ、道場生が混乱すると考えたからだ。
ゆえに、私は独自で稽古するしかない。また、研究と優秀な人材の確保を目指し、なけなしの資金と労力を使い、ボクシングジムの経営までしたことも過去にはあった。その目論見は失敗したが、ボクシングというスポーツは素晴らしいと今でも思っている。また、それによって得られる身体感覚は武術に有用なものだと私は確信している。
私の極真空手は、空手の技術に様々な格闘技術を融合させている。だた、それを道場生に伝えるには組手法を変えなければ、困難だという現実に直面している。
その現状を打破するために、フリースタイル空手という組手法、スポーツを創出したが、資金不足などの理由により、休止状態である。
ただ面白い展開として、伝統空手がオリンピック種目になり、その流れで、フルコンタクト空手団体と伝統派空手団体の協調路線が敷かれた。私は、予てから寸止め空手の組手法とフルコンタクト空手の組手法の併立稽古を行うことが可能だと思っている。さらに僭越だが、少しだけ稽古方法を改良すれば、伝統空手の人気が高まる可能性があるとも思っている。
私は寸止め空手の経験者かつ理解者の立場で、そう考えている。
しかしそれには、教科書を作り直し、稽古法を変えなければならないだろう。現在は、伝統的な古い教科書を使い、稽古法は伝統式に増田流のメソッドを加えた改良型稽古法である。しかし、さらに工夫が必要かもしれない。因みに、私が伝統的な稽古を採用するのは、伝統を捨てたくないからである。
最後に繰り返すが、「応じ」の究極は、外部の刺激から自己を守ると同時に、その刺激を活用し、自己の最善の反応を引き出すこと。言い換えれば、他者の攻撃を弱体化、無力化、あるいは活用し、自己最高の攻撃を引き出すことである。
その概念からすれば、敵を必ずしも傷つけることが最高の攻撃(反撃)とは限らないのだ。敵と自分がお互いを承認し合い、自己を最高の位で浮き立たせること。増田が考える武道空手の究極の哲学がそれだ。
今、ものすごく息苦しい。誰も私の世界観を理解していないだろうと思うと。しかし、嘆くのは止そう。全ては妄想である。
ただ、私はその妄想が真理かもしれないと思っている。ゆえに、もう少しだと言い聞かせ、研究をしていこうと思っている。空手以外では、私の考える道理が当てはまるのがよくわかる。しかし、空手の世界の人たちはそれを認めない。問題はそこである。
2016/11/19 一部加筆修整