以下は、私の道場サイトのBMSの一部からの抜粋である。
これで道場生は減るかもしれないが、私は以下の意味が理解できる人間と武道を修練したい(正直言えば…否、一人で究めるのが真の武道であると、心の中から声が聞こえてきた…)。
ここで断っておくが、私の片腕である秋吉も道場の黒帯たちも、私とは全く異なる性格ばかりだ(当然のことかもしれないが)。私の家族も、私の話など聞いていない。聞けば、疲れるからであろう。私はそれで良いと思っている。私自身も私のような人間が近くにいたら「うるさい」と思うにちがいない。
むしろ、「こんな変な父親でごめんね」といつも思っている。
そう言いながら、「もっと変人になりたい」とも思っている。
今こうして前書きを書いているのも、回りと私の考えが異なる事への「免罪符」のようなものだ。
さらに蛇足ながら、近くで語れば「うるさい」と云われるに違いないから、無視されるのを覚悟で、うるさい事を、遠くからでも語り続けようとも思っている。
【組手技について〜無心の技】
少し難しい言い方になりますが、増田流の空手道で、最も重要なことを述べておきます。空手を始める前のみなさんに、難しいことを言うのは良くないかもしれません。
しかしながら、増田流は初めに重要なことを言っておきます。組手技とは相手と組手を行うための技であり方法ですが、組手稽古の目的は、優劣を競うことではありません。その目的は、相手との技の受け取り合いを通じ、技の本質をつかむことです。技の本質とは、自己を創造していくための原理であり道具のようなものです。つまり、技(既存の技)と格闘しながら、既存の技の殻を打ち破り、真の技(新しい技、無心の技)を生み出すことです。さらに、その過程において真の自己を掴むことが組手の真の目的なのです。
【真の自己を掴む】
真の自己を掴むためには、体験が重要です。しかしながら、ただ体験するだけではなく、技(行動)の目的を意識した体験が必要です。同時に自己の能力を向上を目指す意識が必要です。ここでいう自己の能力の向上を目指すとは、絶えず行動のゴールを明確にし、そこに達するルート(手段)選択の精度(ゴールに到達するスピードとその成功率)をあげる意識を持つことです。また、ここでいう真の自己とは、これ以上はないというようなところを目指す努力の中からの気づきとも言い換えられます。そのような気づきを得るためには、絶えず自己の行動を吟味し、行動結果からのフィードバックを大切にすることです。
組手稽古においては、絶えず自己(心身)からの「発信・指令」を吟味します。同時に他者や心身(自己)からの「返信・受信」を吟味します。そのような吟味を通じ、自己内部に構築された広義のコミュニケーションプログラムや回路を再構築していく作業がBMSの空手道の稽古・修練なのです。鍛錬やコンディショニングについては、組手稽古を行うための自己の基盤をより強靭にしつつ状態を維持、管理することだと考えて下さい。
【BMSの目指す空手道とは】
さらに言えば、BMSの目指す空手武道とは、組手という他者とのコミュニケーション手段を通じ、自己の心と技を磨くことと言えます。言い換えれば、他者との関わり合いの方法を学ぶこととも言えます。例えれば、言語がそうであるように、空手武道の技も同様なのです。ゆえに、まずは基本を習得し、法則を型から学び、それを応用するという体験が必要です。
最後に、BMSの組手修練は仲間との関わり合いを重視します。また究極的にはコミュニケーション能力の向上を要求するものです。そのコミュニケーション能力の向上のために「応じ」と「転じ」という鍵概念を設定します。
【応じとは】
ここでいう「応じ」とは「転じ」の概念を内包しています。「応じ」は、一方的に相手を攻撃する行為ではありません。また一方的に防御するものでもありません。応じとは、状況や相手を受け入れながら、それに対し最善の対応を目指すことです。それが「転じ」の意味するところでもあります。攻撃一辺倒の戦い方は、まるで自我の中に閉じるこもるようなことだと思います。もちろん、そのような局面も時には必要かもしれませんし、最善の対応は個々人、状況に応じて多様です。しかしながら、最善の対応に内在する普遍的な要素を探求し、最善の対応を為すための心身の基盤をつくるのが増田流・極真空手です。