数日前、第73期将棋名人戦、行方尚史八段と羽生善治名人との対局の記事を新聞で読んだ。
第1局目は行方八段が羽生名人に敗れたそうだ(名人戦は7番勝負)。
しかしながら、新聞(朝日)の記事は行方八段に好意的な書き方だったように思う。以下は記事になった両棋士の言葉である。
「僕みたいな人間が名人戦までたどり着けたことになんらかの意義があると、示したい」(行方)
意欲的な指し回しだったし、強い手で来られたので、こちらも突っ張った指し方をした」(羽生)
「勝負手は独りよがりだった。気合いが空回りした」(行方)
また、名人戦の前夜祭では、行方八段が「勝ちたい…」と語った時、会場が沸いたそうだ。
私は、行方八段と勉強会の仲間を介して、一度会ったことがある。
仲間からは、生方氏は破天荒なタイプだと聞かされていたが、私が見た行方氏は、真面目で苦労人に見えた。また、記憶に自信がないが、東北人と聞いた。私は、生方氏に東北人特有の反骨精神と優しさ、粘っこさがあると感じた。実は名人戦の前に、行方氏と交流がある勉強会仲間から、行方氏の調子がよく、名人戦に挑戦できるかもしれないとの情報が入っていた(名人戦には挑戦資格の規定がある。名人戦を戦うということはそれだけで大変なことだ。それが実現した)。
今回の名人戦は、羽生という稀代の天才棋士と行方という反骨の棋士との異色の対局とってもよいだろう。
【新手一生】
私は将棋に関して門外漢だが、私の長年の盟友、岡田稔氏が幼少の頃からの将棋愛好家で、将棋の話を、昔からよく聞かされていた。岡田氏の好きな棋士は、「升田幸三名人」であり、「増田の空手は升田の将棋のようだ」と、言ってくれていた(私の空手など、とてもその域ではないが、岡田氏は、いつも私を励ましてくれていたのだと思う)。
極真空手の選手時代の私は、勝負師の心構えを学ぶ意味で、棋士の書いた本をよく読んだ。昔の私が惹かれたのは、「大山康晴名人」だった。行方氏に会った時、その大山康晴名人の最後の内弟子だったと伺って、驚いた。
それから数十年が経った。その中で空手や勝負の世界を俯瞰してみると、「新手一生」の将棋哲学を持つ、升田幸三に惹かれるものがある。また、羽生名人の将棋論(哲学)に興味がある。先日、 NHKの番組で、チェスの元世界王者のカスパロフと羽生名人のチェス対局と対談を見た。
その中、間違いではないかと思う部分があった。それは「新手一生」の意味が間違って放送されていたのではないかという点だ。テレビでは、「これまで、新手一生といわれ、新しい手を創り出せば、しばらくは安泰だ(優位性を保てるというような意味)と言われてきた」「だが現在は、どんなに新しい手でも1勝しかできない(新手はすぐに研究、分析され、優位性の維持は難しいとの意味)」との意味のナレーションがあった。しかしそれは、私がこれまで覚えていた新手一生の意味とはちがっていた。もしかすると、話の文脈を聞き直せば、違う意味に聞こえるかもしれないが…(おそらく製作者の間違いだろう)。
私が岡田氏から、聞かされていた「新手一生」とは、「1局1局、新しい手を創造し勝つことが大事だ」ということであった。また、「目先の勝ちに拘泥するのは、棋士の本懐ではない」というような内容だったように記憶する。
私は選手時代、「どんな理由があろうと、負けたら何も言えない」と思っていた。ゆえに、「負けてたまるか」と自らを追い込み、同時に「絶対に負けない」と心に誓っていた。そして絶対に負けない戦い方を作り上げた。しかし、勝つということと負けないということは異なるのだ。勝つということを説明することは難しい。おそらく、現在の羽生名人が見ている、勝つということの意味世界は、常人とは別次元で開かれているはずだ。
何かの縁だと思うので、この対局を見守りたい。私は、会ったことのある行方氏に勝って欲しいが、これまでの実績を考えると、困難だと思う。しかし、勝負はわからない。行方八段の中で何かが創造された時、行方八段が勝利の女神の微笑みを見るかもしれない。
蛇足~「守らざるところを攻める」孫子の言葉より
実はこの記事を読んだ時、羽生VSカスパロフ戦と「孫子」の言葉を思い出した。
余裕があれば、兵法論をまとめ上げたかったが、余裕がなかった。
私が思い出したのは、孫子の虚実編の「守らざるところを攻める」という言葉である。
増田章流の超意訳は、「相手の観ていないところを大切にしろ」「そこに勝機が潜んでいる」ということだ。さらに「通常の大局観をも超える視点を…」行方氏にエールお送りたいが、何より弱々しい自分に言い聞かせたい。
(このブログは数日前にメモ書きしておいたものです)
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新手一生
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