ブログの更新ができていないので、なんとか更新したいと思っている。これまで、雑務の処理とその休憩時間はすべて、インプット(読書)に当てていた。今週末は、膝を休めることも含め、雑務を傍らにおき、少しアウトプットをしてみたい。
現在、膝の具合が思わしくない(一進一退、60~65%)。書き記したいことは山ほどあるが、リハビリを含めた、雑務に追われている。体調も良くない。そんな中、昨年に書き記したが、アップしなかったブログをアップしたい。昨年は、教育現場における体罰の是非が話題になった。私は、体罰反対の立場だが、問題の本質は、体罰の是非ではないと考えている。問題の本質は、家庭や地域社会における教育的機能の弱体化や価値観の多様化による、教育現場の混乱である。
さらに、日本人の熱しやすくて冷めやすい気質、メディアの目先重視の仕事ぶりなどが問題だと思う(もちろんメディアに携わる人たちにも、長期的展望や志があると信じたいが…。信じたいが…である)。
教育について~たけしのTVタックルを見て 2014/11/18
たけしのTVタックルを見た。
内容は、体罰の是非の討論だった。
討論と言っても、いつものメンバーに加え、尾木ママとヤクザ先生と呼ばれている教師と堀ちえみとみっつマングローブ?と東国原氏だけだったが。
尾木ママと堀ちえみは、体罰反対陣営、ヤクザ先生とみっつは体罰肯定陣営だった。
その内容は、結論を急ごう。今回の討論は、現場教師にとって、どちらも参考にはならないだろう。
なぜなら、現場ではひどい生徒(社会性に乏しい未熟な人間という意味での)が存在するからだ。それを教師全員に尾木ママのスタイルで教師をやれといっても酷だ。
一方、ヤクザ先生のスタイルで教師をやるのも無理がある。
私はどちらかというと、尾木ママスタイルを支持するが、ヤクザ先生の言うこともわからないではない。実際は、尾木ママ、ヤクザ先生の両者とも、それなりの実績(教育の)を有しているようだ。しかし、それは両者とも人間的魅力が備わっているからだ。
ちなみに堀ちえみもそうだ。彼女の事はよく知らないが、彼女には人間的魅力が備わっているように見える(私には)。
つまり、両者のスタイルが上手くいったのは、両氏に人間的魅力が備わっていて、なおかつそれを魅力的だと感じる人間がいたからだ。
さらに言えば、それを魅力的だと感じない人間は、彼らの視界から消えていたという事実をメデイアは消し去っているからだ。
つまり本当のことを言えば、体罰肯定だろうが否定だろうが、教育には人間的魅力がなければ難しいということだ(厳密に言えば、魅力を感じるための感性教育が重要だ。感性に強い刺激を与えるものや装置、それが映像メディアやテレビの実体だろう。私は、そんなものや装置がみじかに溢れているということに恐ろしさを感じる~補足2015年4月)。
おそらく、多くの教師には、そこまでの人間的魅力はないと思う。
ゆえに、人間的魅力がないところで、体罰を肯定すれば、どうなるか?同時に尾木ママの理想論を持ってきたらどうなるか?
そんなうまくいくはずがない。
一番重要な事は、人間的魅力に乏しい、悩める多くの教師を救うためにはどうしたらよいかということである。私は教師は重要だと考えている。その教師によって人間の人生が左右されることだって少なくない。ゆえに、教師を批判する前に、教師を支援しなければならないと考えている。
ただし、教師にばかり期待するのも問題がある。やはり、家庭が重要だし、さらに言えば、一人一人の価値観が重要である。また、TVを始めとするメディアの責任も重大であろう。
とどのつまり、子供の教育は親がしっかりと責任を持つべきだというのが、私の意見である。
しかし、そこが問われていないし、そこが曖昧になってきていると思う。そこをもっと問い詰めるべきではないかと思う。
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教育について〜たけしのTVタックルを見て
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