以下に、昨日の日誌に書いた、「型論」を掲載する。
この原稿は、2009年ごろ拙著「フリースタイルカラテ」の草稿を加筆修正したものだ。
この原稿は、ボツとなったが…。
現在、フリースタイルカラテは、新しい武道スポーツという定義付けをし、増田流の空手–武道とはあえて一線を画している。それを前提に読んでいただければ幸いである。
また、これは仮説であり、これを具体的に証明しなければならないだろう。大変な作業になるが、挑戦してみたい。ちなみに一番大変なのは、私の家族のような極真–空手家に私の意図するところが理解されないことだが…。私は、みんなの役に立ちたい。その理由は後日述べる。それでは…。今日は少し体を休めたい。
型 論
検討を要する
【一般的な型の考え方】
日本武道では「型」を重要と考えてきたが、フリースタイルカラテ拓真道における「型」の意義について述べてみたい。一般的に日本古来の芸道では、「型」とは理想的な動き(技)の鋳型として考えられている。一方、「技」とはある目的を実現するための法則性、型を内在する手段と言うように定義できると考える。
空手においては、型の意義は伝統技の継承という程度にしか考えられていない感がある。私が空手競技の修練をおこなっていた時、型を将棋で言う手筋、すなわち局面における理想的な戦い方を習得するという目的で行ってきた。ここでいう型とは、空手の伝統的型ではなく、相対で行う型である。約束組手という流派もあるようだ。更に型には、基本的かつ形式的な手筋の理解と習得のみならず、相手との様々な状況における最善の対応を行なうための原理原則を伝えるものとしての意義があると考えている。言い換えれば、技と技のやりとりとは、他者・外部からの働きかけに対し応答するというコミュニケーションの要素を内在しているとも考えていた。同様な観点として、柔道の嘉納治五郎は、形(型)を言語体系における文法に、乱捕り(組手)を作文に例えた。
【型–修練の意義】
フリースタイルカラテ拓真道においては、「型」及び「型修練」の意義は、将棋における手筋の如く、「局面のおける最善の戦い方」を学ぶと同時に「戦いにおける原理原則(理法)」を学ぶものであると考えている。さらに「戦いにおける原理原則(理法)」を学び、相手との対応状況における最善の対応を創出するためにある。また、新しき型の創出は、さらに新しい型を創出することにつながる。
補足を加えれば、組手型は複数の技が組み合さって構成されているが、そこには「原理–技」と私が命名する技が内在している。
「原理–技」とは、複数の技を合成した組手型と異なり、それほど多くないかもしれない。しかしながら、「原理–技」こそが、技を実効あるものとする要素といっても良い。つまり、型–修練の意義とは、型を媒介とし、自己の心身操作の高下を「他者からのフイードバック」を通じ再認識されるところにある。さらに、自己の心身の操作を、より高次化するための「原理–技」の体得を目指すところにあると言いたい。
【原理技とは何か】
「原理–技」とは何か。例えるならば、心身の操作における数学の公理のようなものかもしれない。また、型とは方程式のようなものかもしれない。さらに究極の武術家は、複雑な局面の打開を、自他一体の精緻な心身操作と原理技の応用により転化していくものだと、私は想像している。その有様が数学者や数学のように思えるのは、私が数学に関して無知であるからかもしれない。ゆえに、数学に例えたのは妥当ではないかもしれない。しかし、いつかこの直観を解明してみたいと私は思っている。
話を戻すが、「原理–技」とは、あらゆる身体操作に内在する「天地自然の理」、すなわち「普遍性」を活用すること言い換えても良い。絶えず最善の技を駆使するには、「理」を体得することが重要だ。つまり「原理–技」というものは、動きの中で原理的に機能している要素のことだ。その要素には、眼に見えない心の働きも包含する。ゆえに技を真に観るということは、あまりにも複雑で一般人には理解不可能かもしれない。しかし、意識を高めつつ修練を積めば人間の心身を用いた、技の真の姿が見えてくると私は考えている。
【型–修練の第一義は原理–技の体得である】
わが空手–武道における型–修練の究極的な目標は「原理–技」の体得である。なぜなら、「原理–技」を体得した者は、多様な状況において、より善い技を再現できる可能性が広がるからだ。それは、「原理–技」を応用する「術」を創出したということと同義である、
本来、行為・形態としての「技」は一回限りのものである。しかし、「術」を併せ持った「技術」というものは、千変万化する状況に対応し、あたかも、繰り返し最高の技が繰り返されるかのような錯覚を起こさせる。そのような技術・能力の創造が「型–修練」の究極的な意義である。
柔道では、「型」を「形」と呼称しているが、その意味合いは、私の云う「型」と同じであるかどうかはわからない。一方、わが空手界の「型」の多くは、残念ながら、皮相的な「型」と言わざるを得ない。多くの武道流派には、形の稽古と同時に約束組手や分解稽古などというものを行なうところもあるようだ。そのような稽古を並行して行う場合は、私の考える「型–修練」に近いかもしれない。
突き詰めると、型–修練は理想の形を創出するという目的と同時にあらゆる状況において実効性のある「技術」を体得する目的のためにあると私は考えている。ここでいう実効性のある技術と理想の技とは別物ではない。断っておくが、あらゆる状況において実効性のある技術とは、一般人が観る形態的「技」のことではない。優れた技に内在する「原理–技」とそれを駆使する「術」を指す。
心身を共通基盤に相手と対峙する戦闘という状況においては、複合的な要因が絡み合い、絶えず状況は変化する。そのような中で「勝利」という状況を創り出すには、先ずもって、絶えず変化する相手の動きに普遍性を見出さなければならない。なぜなら、相手の「技(形態)」が完全に表出するより少し前に、その意味を理解、予測しなけらばならないからだ。その理解力、予測力の高低より、対応(技)の実効性が担保される。
繰り返しになるが、武術家には、技が表出する際の「普遍性」を察知する能力が必要である。さらに「原理–技」を充分に活かし、合理的かつ最小の動きで対応するものが高い技術である。華美な動きは、応用力が低く、高い技術とは言い難い。
【形に囚われず、無形の型(見えない技)を追求すること】
ゆえに空手–武道の修行者は、「単なる形態としての技を追求するのではなく、技術を究める」ということを目指すことが理想だと、私は考えている。ただし、技術を究めるには、形態としての技の研究も必要である。それがあって初めて、次の段階に到達する。
私がここでいう「技術を究める」とは、有形の形に囚われず、無形の型(見えない技)を追求することだ。言い換えれば、技が生み出される状況を構造的に理解することだと言い換えても良いかもしれない。そのためには、他者を知ることと共に自己を知ること。また、その関係性を理解すること。さらには、勝負という概念の考察と見直しと同時に人間の全てを考察することである。
【技を普遍の技術にする】
武道家の理想は、技術を究め尽くすことにより、自己の技を真の技に、すなわち、技を普遍の技術にする。それは、決して天才の道ではない。あくなき、自分への挑戦である。
古来武道は、技と心が一如と考えた。その教えは「心法」と呼ばれた。心法とは自然の道(天地自然の理法)と人間の道(人の道)を踏むものである。新しい武道であるフリースタイルカラテ拓真道も、その日本武道の道統を受け継ぐものである。ゆえにそのあり方は、天地自然の理法と人間を探求する道である。
【真(ほんとう)の身体(からだ)】
最後に、私が考える型とは、自己の身体を活かすことを目標としている。また真の身体とは、技と心を一体とする基盤のことである。その身体は、我々が生活の中でプログラムされた組織でもある。私が考える拓真道とは、その身体をより善く作り変えていくこと(リプログラミング)への挑戦でもある。
2009年
一部、加筆修正
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型 論
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