花粉症がひどくて眠れない。
薬を飲めば、頭がぼうっとする。膝も少し無理したようだ。本日は冷やしている。
しかし、そんなことは言ってられない。なんとかして、良い仕事をする準備を完成させなければならない。毎日、時間の許す限り、これま活動と今後の活動をスムーズにするための整理整頓をしている。
【準備】
拙著にも書いたが、まずは、チャンピオンになる準備をしなければならない。
その準備には、体力トレーニングや技術練習は勿論、メンタルトレーニングも含まれる。そして、何より大事なのは、「心構え」である。実はここで「覚悟」という言葉が浮かんだが、あえて使わない。なぜなら、覚悟という言葉自体は悪くはないが、実際に使うと、胡散臭い感じがする。また、陰鬱で消極的だ。私の感性では、覚悟という言葉は使わない。私の考える「心構え」とは、もっと前向きで積極的な感じだ。
ここで増田流の「準備」と「心構え」について説明したい。まず「大きな目標を掲げる」次に「小さな目標を設定し確実に実現していく」その中で、大きな目標を達成するために必要な体力や技やメンタルタフネス、つまり「装備」が備わっていく。そして、最後にもう一度、確認するべきことが「心構え」なのだ。
正確には、「心構え」は、世阿弥のいうところの「初心」と同じと言っても良いだろう。
増田流だが…。世阿弥のいうところの「初心」も私の考える「心構え」も日々、成長し続けていくものなのだ。そして、ある一定のステージ、節目と言っても良いが、そのステージに立った時、真の意味での、自分の心構えを知る。そしてそれが完成する(私は世阿弥の風姿花伝が好きだが、世阿弥のいうところの初心に関しては、風姿花伝を再読し、再考しよう)。
【型論】
そんな中、6年間に上梓した、拙著で不採用になった「型論」を再読した。
正直言えば、「悪くないかもしれない」という感じだ。
その内容を掻い摘んで言えば、技には、「原理技」というものが内在するということ。
さらに原理技は、有形の技ではなく、無形の技であり、眼に見えな技だということである。
また、原理技は多様な状況に対応するために要になる技である。さらに言えば、原理技の応用が、千変万化の技を生み出していく。そして、私の考える型の修練とは、原理技を体得するというところに眼目がある。
【私の仮説を証明するために】
今、そのような私の仮説を証明するには、「原理技」の具体例を挙げることだと考えている。
さらに、その体得方法を言い表すことができれば、身体操作の理論として成立するだろう。
この原理技の存在の証明と具体例を突き詰めてみよう。そうすれば、保留にしていた、出版の企画が再稼動し始める。
同時に、この理論を成立させるためには、バイオメカニクス理論を始め、解剖学や運動生理学など、ここ半年間に渡り、私が取り組んでいる研究が役立つように思う。
半年前に2回目の膝の手術をした。1回目の時は、若いがゆえに、視界が広くなかった。考えも浅かった。
具体的な事は、これから文字に落としていくが、ポイントを一言で言えば、「身体の機能は何もしないでいれば、衰えていくということ」また「身体には掘り下げれば、細胞レベルまでの多様な働きが連鎖しているということ」である。しかしながら、多様な働きのことを知り、その機能を維持、向上せせる努力をすれば、衰えを抑えられるということである。シンプル過ぎるだろうか?
繰り返すが、「人間の身体は使わないと衰える」。しかし、上手に身体を使い続ければ、機能の低下を遅らせることができるのだ。
今、競技に勝つことを目標としていた若い頃とは異なる次元で、自分の身体を再度、鍛えていこうと考えている。
話は脱線するが、もし、私が取り組んでいた競技が、もっとルールが明確で、金銭が得られるものであれば、私は40歳位まで、現役でいた可能性が高いだろう。また、トップに君臨していたはずだ。それほど、私はストイックであった。
少し自慢げに聞こえるかもしれないが、空手家で、私ほどウェイトトレーニングと陸上トレーニングをした人間はいないという確信がある。しかし、私はその経験をほとんど語らずにきた。それが空手家、増田章が理解しにくい原因だと思っている(実は簡単に理解されたくないと思って生きてきた)。
【もっと良い方法があったのではないか」ということを前提に研究してみたい】
しかし、これまで現実は、明確な価値基準がある競技をしていたわけではなかったし、金銭が競技によって得られるわけでもない。日々、雑務に追われながら、雑な身体の使い方のまま、生きてきた部分もあっただろう。
ゆえに、これまで軽い肝臓疾患、腎不全、骨折、腰痛、静脈瘤、半月板の損傷、肩関節の損傷などなど、数々の障害があった。同時に私は、トレーニングに関する勉強もしたきたつもりである。私は、それらの障害の経験、克服の経験、またトレーニングを振り返り、それらについて掘り下げてみたい。例えば、「なぜ私は障害と出会ったのか?」「なぜ障害を回復できたのか?」「どのようにして障害を克服したのか?」「なぜ、自分よりはるかに骨格に優れる人間と戦えたのか?」などである。
それらを基礎にして、「もっと良い方法があったのではないか」ということを前提に研究してみたい。なぜなら、そのような研究を通じ、より良い方法論を残し、後陣に伝えることで、私の空手、私の人生が人の役に立つように思うからだ。
実は、いつも私の心の中には、先述のような観点があった。ゆえに新しい武道スポーツを作りたいと考えた。しかしながら、時間は有限である。ゆえに、考えるということに関しては、限定がない方が望ましいが、行動は、目標を絞らなくてはいけないと思っている(実は、このブログも現在制作中のウェブサイトに吸収合併?したいと考えている)。
兎にも角にも、現在の私は、なるべく少ない目標に絞って、行動したいと考えている。これまで、あまりにも行動目標が多すぎた。
私の今後の目標については、後日、丁寧にまとめあげたい。まずは、増田の極真空手の体系をより高いレベルで纏め上げること。同時に後継者を育成することだ。次に、身体の使い方、鍛え方を研究し、それを空手の技や稽古に活かす事である。同時にそれを増田の武道理論として纏め上げることである。
これまで私は、観念的な執筆を多くしてきたように思う。今後は、具体的で、科学的な記述を心がけたい。
蛇足ながら、原理技は私の理論(仮説)の一部である。勿論、私の直観と仮説が間違っている可能性もある。ただ、研究してみる価値はあると思っている。
拙稿の「型論」は長いので、明日以降、掲載したい。興味があれば…。
【追伸】
「型論」を再読したが、やはり再考しよう…。もっと違う表現方法があるような気がする。
また、覚悟という言葉が好きでないのは、私に覚悟がないからか?また、覚悟という言葉を使いたがる人を見ると、格好つけた感じがするからか。
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日誌3月7日
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