「こだわり」は美しい?
リハビリや雑務の間に、高倉健の映画を見ている。
どれも一度は見た映画だが、「いいなあ」と思う。
なにが良いかといえば、まず、その佇まいである。
僕の筆力では表すことは困難だが、その佇まいを作り出している基本は、他者との距離感だと思う。その距離感とは相手を拒絶しているのではなく、相手を尊重しつつ、同時に自分をも大切にしているような感じだ。しかも、その大切にする自分、強い自我の臭みを「憂い」と「はにかみ」によって消している。また脚本と脇によって、その素材を生かしているのだろうか…。
さらに健さんには、憂いこそあるものの、そこに暗さはない。主役が真に暗い人間だったら、見る人は共感しないだろう。実際の健さんも暗い性格ではないことが、映画から見て取れる。
そんな健さんを多くの人が口を揃え、「かっこいい」という。
その格好良さとはなんだろうか。僕は「こだわり」のような気がする。
自分の生き方に対するこだわり。これまで僕は、こだわりを無くしたいと考えてきた。なぜなら、こだわりを持つと生きにくいから。また、実生活でこだわりを持ちすぎると、相手を拒絶するような距離感を作ってしまう。
言わないほうが良いかもしれないが、健さんの距離感は、役者、銀幕のスターだからこそ受け入れられるものなのかもしれない。
しかし、健さんのような距離感は、他の役者に見られないような距離感のような気がする。うまく言えないが、その部分へのこだわりに対し、健さんには妥協がなかったように見える。
目めまぐるしく変化を遂げる時代。変化が必ずしも悪いわけではない。また、一見変わらない健さんこそが、変わり続けていた人ではないかと思う(他律的にではなく自律的に変化していったということ)。
本質は、多くの人が、こだわりを持ち続けたいと思っても、持ち続けられないのが現実だということであろう。ゆえに、一層、憧れが強くなるのかもしれない。
ところで、山田洋次監督は、素材を大切にして、美味しい料理を作る料理人のようだ。その料理を食べた人は、もう一度、その料理を味わいたいと思う。
僭越ながらそんな感慨を持つ。
山田洋次監督の映画は、そんな美味しい料理のようなものだと思う。
さらに、脇役が素晴らしい。主役を引き立てるための脇役が本当に素晴らしい。しかも、その脇が料理において欠かせないものになっている。
ゆえに、「幸せの黄色いハンカチ」や「遥かなる山の呼び声」で脇役を演じた、武田鉄也さんなどは、映画の中で輝いていた。
ちなみに僕が好きなのは、健さんと倍賞千恵子さんの共演作品である。
いつも「なんて素敵なカップルなんだろうか」と思いながら映画を見る。
僕は倍賞千恵子さんが大好きだ。
山田洋次監督の映画は、人間と社会に内在する不条理や葛藤、どうしようもない宿命のような現実の中で、一瞬かもしれないがきらめく、人間の輝きを表現しているように思える。
冒頭に「こだわり」と述べたが、山田洋次監督のこだわりは、そこにあるのではないだろうか。また、映画に感動する秘密は、山田洋次監督のそんなこだわりにあるのかもしれない。
僕は、映画を語る資格などない門外漢ではあるが、あえて映画は素晴らしいと叫ばせて欲しい(最近、日本映画は復活しつつあるようだ。秀作が多い)。
最後に、素敵な先人が一人、また一人と他界していく。
本当に寂しい。人の訃報を聞くたび、数人の恩師のこと、父のこと、友人のこと、これまで関わった人のことを思い出す。
また「僕は、その人達との思い出を大切にしているのだろうか」という声が聞こえてくる。
これまで僕は、自分の影に追い立てられるような毎日を送ってきた。
健さんの映画を見て、「ささやかな人生で良いから、人生をもっと味わっていかなければ」と思う。それが、これまで出会い、助けてもらった人に対して感謝することではないかと思っている。
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「こだわり」は美しい?
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