膝の具合は、もう少しかかりそうだ。明日、大きな病院で再度、MRI検査をする。
余り動けないのと、少し時間に余裕ができたので、修練テキストの製作を勧めると同時に、1年間、放置していた執筆の仕事にも取りかかっている。
本日は、1年前に書いた原稿(序文)に手直しを入れたものを掲載する。しかし、意味がわからないと、家族に「駄目だし」を食らった(10時間以上PCとにらめっこしていたんだけどなあ・・・、才能がない?・・・とほほ)。
簡単に骨子を説明しただけだったが、私のレトリックがピンとこないとのことだった。
ゆえにボツ原稿である。しかし、仲間から意見をいただきたいがゆえに掲載する。
方向性は理解して欲しい。それでは・・・。
序文
【身体を考える~50才からの武道を志して】
「五十にして四十九年の非を知る」
「六十にして六十化す」(遽伯玉/きょはくぎょく/淮南子より)
冒頭に挙げた言葉は、中国古典の思想書である淮南子の中に残された、遽伯玉(きょはくぎょく)の言葉です。
私は、その一つ目のフレーズを、これまでの人生を消極的に反省する句ではないと思っています。おそらく、これからの人生を積極的に変えていこうと言う決意の表れの句であると受け取ります。
なぜならその後、「六十にして六十化す」という句を、遽伯玉は残しているからです。
その意味は、六十才になっても、六十回変化するかのごとく、絶えず自己変革を行うということだと思います。そのような考えの萌芽を、前の言葉「五十にして四十九年の非を知る」から見て取れます。
遽伯玉という人は、自分のこれまでの生き方を積極的に否定し、さらに自己変革していくという意識、生き方をした人なのでしょう。
私は、そのような生き方こそが、老いを楽しみ、人生を楽しむ生き方のコツではないかと思っています。
私が本書で伝えたい事は、すべての人の人生の基盤である、自分の身体を捉え直し、大切に扱い、そこから新しい自分を発見、創造していこうということです。
【身体の役割を捉え直そう】
私は今、人生とは自分が監督、主演する映画製作のようなものだと考えています。
その映画製作では、「自分の身体」は、演技者(表現者)としての自分の基盤としてのみならず、カメラ&メディアの役割も担います。また、身体の一部である脳は、脚本(シナリオ)を作成したり、映像の編集等の役割を担います。つまり、人生とは、監督、脚本家、演技者、カメラ&メディア、カメラマン、編集等、多くの役割を自分の身体が担い、製作される映画のように思うのです。
異論は必至、理解不能との声が上がるでしょう。しかし、そんな風に人生を捉えてみたいと思っています。
補足を加えれば、自分以外の演技者(他者)や背景としての被写体は、自分の身体を通じて認識されるものだと思います。つまり身体には、他者との関係性を認識する装置としての役割もあるのだと思います。だからこそ、身体の機能を大切に磨き、活用することが重要だと思うのです。また、脳による編集を楽しむということが、自分という存在とその人生を楽しむことではないでしょうか。
ここで例える映画製作(人生)のための映像(素材)は、自分の身体を基盤とした体験により得られます。また、その体験とは、他の演技者(他の表現者)との関わり合いを素にするのみならず、ときは自然現象を素にすることもあるでしょう。また、映像を撮る際、映像の切り取り方や光の捉え方が重要です。
但し、映像の切り取り方や光の捉え方には、センスが必要です。そのセンスとは、普遍性を観る力とその活用力と言っても良いと、私は考えています。
さて、これまで長々と稚拙な例えを展開してきたのには理由があります。それは、人生と身体をそのように例えるならば、自分という存在や人生の捉え方が、大きく変わると思うからです。
また、自分の身体には、カメラ&メディアの役割、編集の機能があると、捉え直すことで、誰もが感動的で多様な人生を編集・創出していけると思うからです。
私は、空手武道を身体を捉え直すきっかけ、感動的で多様な人生の創出に役立たせるものとして、生まれ変わらせたいと考えています。
そのために繰り返しますが、先ずは身体の役割の一つを、映画製作における、カメラ&メディアに例え、「身体の役割を捉え直そう」と、私は言いたいのです。また、撮影と映像編集、そして脚本づくりに必要な「哲学を求めよ」と付け加えたいと思います。
武術は、身体が有するカメラ&メディアとしての機能を捉え直す上で最適です。それは、武術は自他(人間)の身体の機能、関係性を掘り下げ、その相互作用を体験できるからです。また、それを深く掘り下げて往くあり方が武道だと思います。しかしながら、「競技に勝つ」というような目的を追い求め過ぎれば、そのような面を多くの人に伝えることはできない様に思います。また、武道としての方向性を見失うことにもなりかねません。なぜなら、勝ち負け(勝負)や競技(名誉)という価値観のバイアス(偏見にとらわれた状態)がかかり、身体と脳の働きの最も素晴らしい部分・機能を見落すからです。ゆえに、新たな空手武道のあり方としては、競技や試合は、あくまで手段の一つとします。ゆえに武道スポーツと空手武道は、源を同じとしながらも分けて整理します。
【50才からの空手武道のあり方】
私が考える、50才からの空手武道のあり方は、型稽古を重視します。但し、皮相的な形を憶えたり、それを良く見せたりするような稽古ではありません。絶えず、相対型(組手型)の稽古を反復し、技術の理合を考え、その応用を意識します。そのような手段・方法によって、身体の有する可能性を拡げるのです。そのプロセスにより、カメラ&メディアとしての身体の機能が向上します。例えるならば、レンズが明るくなり、画素数が増加します。また、シナリオ作成や編集機能の足かせとなるバイアスを除去します。そして新たな映像やアイディアが生み出される基盤をつくります。そして、新しい情報(映像)の発見・獲得と再編集が人生の喜びに繋がるのです。
【普遍性の探求と道理の探求】
最後になりますが、50才からの空手武道のテーマを一言で申し上げれば、「普遍性の探求」と 「道理の探求」です。但し、普遍性と道理は、若干、意味を異にします。あえて言うならば、普遍性は科学的、道理は倫理的な面が強い概念です。
また、私は武術の眼目である「真剣勝負」「勝負」という概念を踏まえながらも、それらを超越する概念を探求したいと考えています。なぜなら、勝負といった物事も一つの概念にしか過ぎず、そこに囚われれば、真に創造的な想像力を働かせることができないと考えているからです。
そして今、あらたな空手武道の目標を、「人間としてより善く生きる」ということと見据えています。換言すれば、一人ひとりの人生のより善い瞬間を、人間が有する素晴らしい「身体」によって掴むこと。同時にその編集を楽しんでいくということです。
本書は、そのような手段としての空手武道の修練体系の大枠と一部を示すものです。まだまだ道半ばですが、是非共、最後までお付き合い下さるようお願いいたします。
著者
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身体を考える〜50才からの空手武道
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