【1勝9敗のダメダメ男のクロスオーバー体験論~その2】
ここから長い話が続くかもしれない。私は、中学・高校時代に実に様々な体験をした。
ゆえに、ある程度、きちっと話さないと、経験が多過ぎて、?マークが一杯でる可能性がある。ゆえに、少々脱線するようだが、書いておく。
【私が柔道を始めたのは】
私は、中学生から高校の始めまで、柔道に打ち込んだ。
私が柔道を始めたのは、中学生のある時、大山先生の本の中で、先生が柔道や様々な武術を修練したと書いていたのを見つけたからだ。それで、将来、極真空手をやるにしても、ひとまず柔道をやろうと思い立ったのだ。しかし、私の中学の柔道部は廃部寸前だった。しかし、私は本で柔道の勉強をする内、どうしても柔道がやりたくなっていた。そこで、中学の柔道経験者を一人ひとり口説いた。「柔道部を創ろう」と。中には、断る者もいたが、5~6人が集まった。その中には、少年柔道をやっていた林君がいた。
特に、柔道部の副キャプテンを務めた、林君は、背負い投げが上手だった。
後日、聞いたところによれば、彼は少年柔道クラブのメンバーの中でもセンスのある少年だったらしい。
私も始めて練習した時、そう感じた。素晴らしい背負い投げで、見事に投げられた。しかし、私はその彼を副キャプテンにした。
私は柔道部創設の際、「柔道部は、俺が仕切るから、私がキャプテンで、お前は副キャプテンをやってくれ」と彼にはっきりと伝えた。
彼は、口は悪かったが、いい男だった、あっさり「良いよ」と応えてくれたように記憶する。本当は、陰で悪口を言っていたかもしれないが・・・(笑い)。
でも、私は信じている。短い期間だったが、チームワークの良い柔道部だった。
ある時、学校の講堂でクラブの新人募集の集会があった。私が代表した。そして新入生に「柔道部に入って強くなろう!!」そんな感じの呼びかけをしたように記憶する。すると、新人が10数名ほど、入って来た。女の子も見学にきた(窓の外から数人が見ているだけだが・・・笑い)。その後、私が引退してからは、クラブは存続したかは分からない。
余談だが、数年経ってから、暴走族になった後輩に出会った(笑い)。男前のかわいい奴だった(笑い)。
断っておくが、私がキャプテンになったのは、誰よりも柔道に対する情熱があると自負があったからだ。また、廃部寸前の柔道部は、強いキャプテンシーがなければ、なし得ないと直観していたのと、時間を無駄に過ごすのが大嫌いな私の性癖による。以上の部分は、拙著にも書いた。
中学3年生だった私の柔道部運営方法は、稽古メニューの大枠は私が決め、技の研究は経験者の中から、その技の得意な者を選び、みんなで教わる。
例えば、背負い投げを教えるのは林君、払い腰は何々君というように。
また、当時を振り返ると、柔道の技の習得に一生懸命だった。技の研究を懸命に行なった。後から考えれば、経験に乏しい私の研究等、たかがしれている。しかし、それをさとるには、数多くの体験と失敗、そして5~6年の歳月を必要とした。
当時の私は、勉強もせずに柔道の本を読み続けた。おそらく、柔道部の中で、柔道の本を一番読んでいたのは私だったはずだ。大雑把に例えれば、柔道オタクのような感じだ。
実は、私の中学の柔道部顧問は、柔道ができなかった。しかし、顧問の先生は、懸命な私に柔道塾を勧めてくれた。
その柔道塾が、私が人生の中で、最も感謝している先生の一人である岩井克良先生の主宰する岩井柔道塾である。当時の中学の柔道部顧問の先生にも御礼を言いたい。健在であることを祈っている(段々人生が終盤に向かっている。寂しい・・・)
しかし、柔道素人の私がキャプテンとは、ギャグ漫画のようだ・・・。
私にとっての最初の柔道教本は、秋田書店の「柔道に強くなる」(醍醐敏郎)である。今も永久保存版として残してある(笑い)。
また猪熊功先生の「柔道」(講談社)も岡野功先生の「バイタル柔道」も永久保存版だ。高校に入ってからも、多くの柔道の本を読みあさった。原 康史先生の「柔道三国志」も私の愛読書だった。
私が好きだったのは、猪熊功先生である。当時、猪熊功先生が「俺がヘーシンクと戦ってやる」と何かの本で語っていたのを読んで、気持ちが高ぶったのを憶えている。
(その3へ続く)
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【1勝9敗のダメダメ男のクロスオーバー体験論~その2】
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