東孝が創った早大極真会~
【4月26日、東京・高田馬場】
4月26日、東京・高田馬場の中華料理店に早大極真会のOB並びに現役学生会員35名余りが集まった。
早大極真会は現在、IBMA極真会の仲間であることから、私も参加させて頂いた。ここで、私と早大極真会との関わり合いについて少し、お話をしたい。
私が主宰するIBMAの古くからの支援者の一人、川瀬先生は、早大極真会の第1期のメンバーのである。また、第3期の石川先生は、東京都稲城市長を5期、20年努めていた頃からの支援者である。石川先生には、10年間もIBMA主催の大会会長を務めて頂いた。さらには、第7期の主将だった荻野先生はフリースタイルカラテ・プロジェクトの盟友である。また古くからの友人である。
実は早稲田大学がある高田馬場には、私の道場がある。その関係で早稲田大学の学生が時々、私の道場に入会してきた。その中で、早大極真会に興味のある者は、荻野氏を通じ、早大極真会のメンバーとなっていった。その中には、主将を努めた者もいる。そのような流れの中、私と早大極真会の関係は、徐々に深いものとなっていった。
勿論、すべてのOBと面識はない。しかし早大極真会の創設者である、東孝師範や第4期の三瓶啓次師範とは私が10代から面識が合った。また、両人は大好きな先生、先輩方だった。
特に三瓶師範には、若い頃から大変お世話になった。それは良い思い出である。あえて言っておくが、三瓶師範との思い出には、嫌なことは一つあるかないかである。ほとんどの思い出が楽しかった。私が嫌だったのは、無理矢理飲まされることである(笑い)。大袈裟に聞こえるかもしれないが、ロシア遠征では、下戸の私が、ウオッカの飲み合いに付き合わされ、死にかけた。その時私は、一晩中苦しみ、眠れなかった。私は本能的に水を少しづつ、一晩中、飲み続けた(少しづつ、3リットル以上、飲み続けた)。危なかった。
さて、話を戻すが、早大極真会の会合はとても暖かい空気に満ちあふれていた。
私の筆力でそれをお伝えすることは難しいが試みてみる。
【東師範の謝罪?】
まず会の冒頭に東師範が、「今、俺がやっていることは間違っていないと思うけど」と前置きをしながらも、「俺が会をほっぽり出して悪かった」と謝罪しした。
しかし、OBの一人が大道塾の東先生というような言い方をした時、間髪を入れず、「俺は早大極真会だ」と切り返した。私はその東師範の発言に早大極真会並びに極真カラテに対する思いを確信した。
また東師範がトイレ?に消えた時。OBの一人が、「東師範は先ほど謝ったけど、東先生のおかげで早大極真会は在り、そして我々はこの場所にいる」というようなことを述べた。そこにいる全員がそう思っていたと思う。外部の私もそのように実感した。私見だが、早大極真会は東先生の志と行動によって生まれたのみならず、その人柄と生き方に共鳴する者達のあつまりである。勿論、大山倍達先師の志に共鳴する者の集まりであることは言うまでもない。ただし、近年になって、そのような共鳴度が落ちて来たのは否めない。その原因の第1は、極真会館の分裂にあるというのが一般的だとは思うが、私はそのように考えない。それについては、最後に書きたい。
【東師範と川瀬先生のやり取り】
次に第1期の東師範と川瀬先生のやり取りが面白かった。
早大極真会の草創期、川瀬先生の地元の三重県でよく合宿をしたらしい。そこに川瀬先生はいつもビールの差し入れをしていたそうだ。
そのことについて東先生が、「ビールの差し入れが少なかった」というようなことを語った。それに対し、川瀬先生が「私は早大極真会の現役学生を応援はするが、東は応援しない」と川瀬先生は笑いながら切り返す。東師範はすかさず、「いや、川瀬は偉い男です」と切り返す。
また、後輩の一人が、「川瀬先輩はお金に物言わせ、女子大生とたびたびディズニーランドでの合同デート?を企画して下さいました(笑い)」の語り始めた。他のメンバーから「俺は誘ってもらえなかったぞ(笑い)」と声が出る。その間、川瀬先生は「苦笑い」だ。
【合宿の思い出】
また、古いOBの合宿の思い出がすごかった。「我々の合宿は山中湖で行い、毎朝夕、山中湖を1~2周回った」というのだ。因に、山中湖は1周13、3キロメートルである(極真会館の全盛期だ)。また、「そこで多くの学生が脱落していった(笑い)」と。脱落とは、走りきれなかったという意味と、早大極真会に残らなかったという両方の意味が含まれていたように思う。
【私の挨拶】
幹事役の荻野氏から会の冒頭、私の挨拶を求められた。初め、私は断った。「後にして下さい(できれば最後が良いと思っていた)」「私が発言すれば、私は帰らなければならないというようになってしまう(笑い)」と荻野氏に語った。なぜなら、私が話す内容は「うざい」からだ。補足すれば、私は部外者であるから、社交辞令的かつ包括的(纏め的な)な発言になるからだ。それは、仕切り屋でクソ真面目の傾向がある私の性格による。ただそれは、早大極真会の再建の手伝いを要請されている人達に対する義務感の現れと考えて欲しい。しかし、それが回りに「うざい奴」と思われてしまう可能性が往往にしてある(だから私は人付き合いが苦手だ)。私はそれを心配した。
また私は、東師範、川瀬先生、辻先生、石川先生などの諸先輩とその後輩達の交流による生まれる空気を、入会間もない若い会員と共に、只、味わいたかった。
とはいえ、ご指名なので私は挨拶をした。そして早大極真会の皆さんに語った。先ずは、「私が普段から、川瀬先生、石川先生にお世話になっていること」また、「東先生、荻野先生が大好きなこと」などなど。
そして、こう結んだ。「早大極真会は現在、会員数は少ないが、とても優秀な学生がいます」
「この40年以上も続く、早大極真会の繋がりは、財産であり、大事にしなければならないと思います」「ただ、荻野先生の時代は、勉強をしなくても良かったが、現在は勉強もしなければなりません(笑い)」「ゆえにOBがもっと空手と関わり、現役学生を応援してあげて欲しい」というように。
現実、少しずつではあるが、そのようになりつつある。例えば、高田馬場道場では、還暦を超えた石川先生が、週1回(水曜日)に稽古指導している。そこに現役学生のみならず、OBの社会人が稽古に参加し始めている。
早大極真会はこれまで、体系だった指導法や管理体制がなかったため、昇段者が少ない。その多くが茶帯止まりである。ゆえに私は、OBの会員に黒帯を取得して欲しいと思う。そして、それをきっかけにし、生涯武道の道に踏み入って欲しいと思う。それが本来の極真の意味だとも思う。石川先生はそれを現在、東京都議会議員を務めながら実践されている。
私は、早大極真会のみならず、増田道場生に対し、「空手をやって良かった」「空手をずっとやり続けたい」と思ってもらえるように頑張りたい。しかし、いつまでやれるかは分からない。また、結果も伴ってはいない。今は只、全力を尽くすのみだ。
気がつけば、3時間の1次会はあっという間に終了した。その後、東先生を先頭に「カラオケ」に向かった。35名の多くが2次会まで向かったのではないだろうか。本当にうらやましい光景である。様々な年齢が先輩後輩として、否、仲間として何かを共有する。すばらしことだ。奇しくも、本日は大山倍達先師の20年祭があった。極真空手は本来、世界中に多くの仲間を有し、それは家族兄弟のようなものだと思う。しかしながら現在は・・・。残念なことである。
因に私は、2次会は遠慮した。私がそこに入れば、私はおそらく夢を語り出すだろう。そして自分の夢を語り出せば、うざい存在となる。それを分かっていながら、夢の実現のことをいつも考えているのが、増田章である。ゆえにうざい存在になる前に消えた。いずれ空手武道家としても消えるだろう。ゆえに日々、辞世の仕事をしたいと考えている。そんな中、私も昔の友や仲間と語り合いたいという衝動に駆られることもある。しかし今は、全力でやらなければならないことがある。
最後に、早大極真会はなんとしてでも存続させなければならない。早稲田大学が存続する限り。余計なお世だろうが・・・。
私が考えるに、OBを含めれば総数300名を超える、早大極真会が存続するために、速やかに着手しなければならないこと。それは、会運営の仕組みづくりである。正直言って、20人ぐらいのOBの有志がいれば、簡単であろう。問題は、真剣に考える人間が一定数いることである。私は20人と言ったが、それが私の感覚的な閾値である。閾値を超えれば、会は好転し始めるに違いない(僭越ながら・・・)。
【蛇足ながら】
蛇足ながら、この会合には早大極真会OBの三瓶啓次師範の直の後輩、荻野氏の直の先輩である大野氏も参加された。私にとって、大野氏はお世話になった人の一人で、頭が上がらない。大野氏の姿を見て、三瓶師範のことを思い出した。三瓶師範がこの席にいれば、さらに楽しく意義ある会になったと思う。
極真会館 早稲田大学支部の歴代主将・会員
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東孝が創った早大極真会〜
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