真の空手武道とは~その2
私の本心を語る。
私の体得した武道は、自他(人間)の安心立命のためにある。
すなわち、自己(自分)の心を平安たらしめ、自己を活かすこと。
それは、他者の心を平安たらしめ、他者を活かすことでもある。
その境地に武人が至った時、はじめて、日本武道の魂を掴んだと言えるだろう。
私は、日本武道の究極とは、自己(自分)を活かし、かつ他者を活かす道であると確信している。
さらに、その境地を目指し、そこに到達した時、初めて「武徳」が現出するというものだ。
現在、空手は武道だと、多くの極真空手家は喧伝するが、その心は脆弱かつ貧困の感が否めない。おそらく、道を掴めていないのだと思う。
武道を極めるとは、自分の殻に閉じこもることではなく、自己を開いて行くことだ。なぜなら、武道とは、人間探求に他ならないからだ。
裏を返せば、自己を開き、自分を拓いて行くために、武道がある。
僭越だが、これからの日本、もっと、世界との交流を深め、日本人を拓いて行くべきだと私は思っている。
平たく言えば、日本人が真に他国の人達と交流し、自他の間にある偏見を減少させること。さらに普遍性を掴んでゆくということだ。日本人ならできる。また、そのような中で日本人が世界に貢献できることが多くある。私はそのように思うのだ。
勿論、ただ外国に行けばよいとか、ただ他国の人と交流すれば良いと言うようなことではない。真剣に他者と向き合い、自己と向き合うという覚悟と意識が必要であるということはいうまでもない。
ここで補足を加える。私が先述した自己とは、自我の本体である心を指す。また、自分と言うのは、その自己と自己が住みついた身体によって形成された個(個性)を指す。
私は武道を通じ、世界中の人達の心の普遍性(人類の良心)を活性化させたい。空手武道には、そのための道具・手段となる可能性を多く有すると考えている。また、本当に善いものは特殊かつ普遍であるとも思っている。
私の武道論には、異論を唱える人も多いだろうが、古の武人と語り合えば、必ず私の考えと共鳴するはずだ・・・。
真の空手武道とは〜その2
楽しめましたか?〜その1
楽しめましたか?~その1
10月28日、第1回フリースタイル空手チャンピオンシップ,東京オープンから、早くも2週間が経とうとしている。
まだ、残務処理が残っているのと、保留していた問題の処理に当たらなければならないので気が休まる時はまだない。正直言って、頑丈な私でも、今回の大会は、かなりのストレスだった。しかし、体調も回復した。後は気力を充実させ、頑張りたい。
さて、試合後、選手の方々からフィードバックを報告する。選手の皆さんからは、「楽しかった」という声を多くいただいた。また、このルールだったら、怪我も少なく、長く競技を楽しめるとの声があった。
「競技を楽しむ」というのは、試合前、私が掲げたフリースタイルの目標である。もしかすると、みんな私に気遣い、楽しかったと言ってくれるのかもしれない。
勿論、フリースタイルの戦い方が解らない、難しいという感を一部の選手が持っていることにも、私は気付いている。
しかし、そのような選手は、格闘技、武術の素人達なので仕方ない。今後は、どのようにしてフリースタイルの戦い方を伝えるかが課題だ。
既に、格闘技、武術の経験が豊富にあり、体力や技術の引き出しがある程度ある選手は、フリースタイルの安全性とゲーム性に納得してくれた。
ゲーム性とは、将棋やチェスのように戦術性に富む、知的なものであるということである。
さらにその知性は、競技に科学性と芸術性の両面を共存させてゆく。
勿論、ゲーム性が選手や競技に反映されてくるには、まだ時間が必要だ。
しかし、僅かだがそれを感じ取ってくれた選手がいるということが、うれしい。
また、ある選手から貴重なフィ-ドバックをいただいた。早速、ルールに反映したい。断っておくが、今回の大会で審判の技量にまだ不充分な点は否めなかった。しかし、多様な戦い方をする競技者の技を審判するのは、見ている程、楽ではないだろう。今後の課題として、審判がもっと格闘技術に精通するということを挙げたい。例えば、サッカーの審判がサッカーに精通しているように。
理想的には、多様な格闘技の選手が参加できるフリースタイルの審判は、格闘技に精通していなければならないだろう(勿論、強い格闘技者である必要はないし、判定基準は可能な限りシンプルにしているので、あまり難しく考えないで欲しいいが・・・)。
一方、ルールには、ほとんど問題はないと言っても過言ではない
後は、競技法の周知と選手の育成が課題である。但し、若干のルールの修整をする予定だ。その内容に関しては、近いうちに発表する。
(続く)
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楽しめましたか?〜その2
楽しめましたか?~その2
ここで、私が懇意にしているサッカー愛好者の真鍋さんのことをお伝えしたい。
真鍋さんとは、メガロスというスポーツクラブで知り合った。
私はサッカーには門外漢であるが、フリースタイル空手の将来の参考にと、サッカーについて勉強している。また、サッカーに詳しい人に質問をしたりしたりもする。
真鍋さんは、少年時代からサッカーを始め、アルバイトでお金を貯めて、ブラジルまで渡り、コリンチャンスSCでプレーしていたという。
真鍋さんは昭和36年9月3日生まれで、現在もサッカーを楽しんでいるという。真鍋さんは実際の年齢よりかなり若く見える。そして、ジムでは熱心にウエイトトレーニングを行っている。
私がぶつけた、サッカーについての質問に答える時、彼は少年のようにキラキラしている。また、真鍋さんは本当にサッカーが好きなんだなと伝わって来る。
私は、フリースタイル空手のワールド(世界観)を作るため、私は真鍋さんに取材風に質問をぶつけた。その内容を紹介したい(この内容はノートにメモを取ってあった)。
増田「真鍋さんにとってサッカーとは?」
真鍋「楽しくてたまらない遊び」
増田「サッカーの本質とは?」
真鍋「いかに美しくゴールをきめるか」
増田「美しいゴールとは?」
真鍋「満足できるゴールへのプロセスを踏めるかどうか、満足できれば美しい」
増田「美しくないものとは?」
真鍋「遊び心がないもの」
増田「遊び心とはなんですか?」
真鍋「最初にボールを蹴ったときの楽しさが入っているかどうか」
増田「それはどういうことですか、もう少し詳しく教えて下さい」
真鍋「高校生のころ、勝ち負けに拘っていた」「そんな感じではなく、もっと純粋な楽しさのことです」「僕はブラジルに行ったときにそれを感じたんです」
真鍋さんとのやり取りは以上だが、私には非常に参考になった。
そして、真鍋さんのことが以前にも増して好きになった。
私は真鍋さんの考えに共感した。私も空手において、そのような感覚を生み出せるようにしたいと、ずっと考えてきた。
(続く)
楽しめましたか?〜その3
楽しめましたか~その3(前回の続きです)
~ピーク・エクスペリエンス!!
振り返れば、私は空手競技を楽しみたいと、長い間、考えてきたように思う。
私は競技選手時代、長く苦しんだ。その内容は、拙著「吾、武人として生きる」で書いた通りだ。
その苦しみの中、メンタルタフネスというスポーツ心理学の書物を始め、宗教、文学に至るまで、人間に関する幅広い書物に救いを求めた。そうして、セルフコントロールを徹底的に勉強した。
当時、私は10数種のキーワードを毎日、繰り返し唱和した。その中に「楽しむ」というキーワードがあった。
その時は、競技自体が楽しいという感覚には中々なれなかった。しかし、競技を楽しめるような心境にならなければ、長く選手生活を続けることができなかったのも事実である。私は、無理矢理、競技を楽しいものだと思い込もうとした(その辺は今回は詳しく書かない)。
また、高い集中力を得るには、リラックスした状態でなければならないということに気付いたのも選手時代である。
以来、長期的に競技を続けるため、さらに競技の質を向上させるには、競技を楽しむ気持ちが大切だと考えてきた。
世間には、競技は若い人達のすることで、中高年のすることではないという考え方もある。しかし、果たしてそうだろうか?中高年になっても、競技を通じ、新しい何かを発見したり、友人を作ったりすることは有意義なことではないだろうか。フリースタイル空手の目標の一つに、長く競技を楽しむということがあるのは、そのようなことを念頭に、フリースタイル空手は構想されているからである。
残念ながら、既存の空手競技ルールでは、真鍋さんがいうような「楽しさ」を獲得することは難しい。また、長く競技を楽しむのは困難だ。
なぜなら、ボクシングのような一瞬でKOできる攻撃とゴールが封印、制約されているから。また、柔道やブラジリアン柔術のように、倒し技や関節技が封印され、一瞬で技が決まることが少ない。ここで言う、一瞬で技が決まるとは、ラッキーで決まるような技を指すのではない。技が決まるまでのプロセスに理が備わっているかどうか、つまり「作り」があるかどうかと言うことを指す。
つまり、先述の真鍋さんが言うのと同様、ゴール(一本や勝利)へのプロセスが満足・納得できなければ、真の楽しさは生まれない。補足すれば、既存の空手競技はゴールが曖昧なのだ。
既存の空手競技のように審判の主観に頼る判定方法は、真の楽しさを生み出さない(多くの人は、空手は武道だからそれで良いというかもしれないが・・・)。
また、競技を長く楽しむという点では、打撃技の威力や戦闘(組手)に対する耐久力を競うような競技のあり方には、難があるのは明白である。
私流に、先述の真鍋さんの「楽しさ」についての考えを、考察し意訳と解釈を加えれば、以下のようになる。
先ず、「人間には、意志を持って行動することに快を感じる習性がある」。また、「自分の意志的行動が、自然の理法に適ったとき、そこに楽しさが生まれる」さらに、「自分の意志的行動が、様々な相互作用で、想像を超える結果を生み出す時、そこに感動、喜びがある」
補足を加えれば、人間には自己の意志的行動に抵抗するかのような他の意志が生起することがある。それを乗り越えるが如く、自己の強い意志を持って行動し続ける時、ある特殊な状態になるとの実感が私にはある。
人にもよるが、その状態を経験した人は、神の存在を感じることさえあると思う(私の場合はそうだった)。それは、スポーツサイキングの世界でいう、「ピーク・エクスペリエンス」と同一のものだと思う。
以上は、私流、人間心理の分析でもある。
(続く)
楽しめましたか〜その4
楽しめましたか~その4
繰り返すが、競技には楽しさが必要だ。既存の空手競技はそれを大切にしているだろうか?
今回は、サッカー愛好者との対話の中で感じたことを掲載しているが、サッカー選手がサッカーを語る時、とても理論的である。(テレビで見る限りだが)。
一方、空手愛好者が空手を語る時、主観的・観念的で戦術や戦略論とは言えない内容になってしまうのはなぜだろう。空手を行う人にも優秀な人はいるはずだ
おそらく、空手が競技(ゲーム)にはまだなっていないからだと私は考える。
既存の空手競技は「美人コンテスト」のようなものだ。「その競技のチャンピオンが何を言う」「天につばするようなコメントだ」と思われるかもしれない。
ただ、「どちらが強いか」という判定基準によって格闘技と格闘の優劣を決めている姿は、「どちらが美人か」という美人コンテストと似てはいないか。本来、どちらが強いかなんて、審判に分かるとは思えない。
また、地域性、文化、時代背景等により、美人の基準が異なるように、格闘技の優劣も様々な見方ができると思う。空手の場合、時代や流派の上位の人達の価値基準を絶対とし、優劣を決めるているように見える。しかし、それではいけないと私は考えている。これからの時代は、「普遍性」を追求し、その上で個性を尊重するという方向が良い。
断っておくが、封建的な社会に於いては、上位の人の価値観を下に押し付けることは悪ではない。むしろ当然のことであるということを付け加えておく。
しかし、武術・格闘技の本質は「相手の戦意を喪失させる」ということだ。フリースタイル空手はそのための技量を磨くことを競技の核にしている。さらに、それを審判のみならず、誰にも分かるルールで了解させる。それが目標だ。
今回のフリースタイル空手競技会では、審判法やスコア等、ルールの周知がされていなかったため、観客にフリースタイル空手を了解させるところまではいかなかったかもしれない。努力不足、能力不足を悔いている。
再度、サッカーを考えれば、サッカーというゲームは、ルールはシンプルに見えるが、個人技と組織的な戦術とが融合されている。そのことがサッカーという競技に無限の可能性を生み出し、奥深さを与えている。言い換えれば、サッカーには科学(論理性)と芸術性が同居している。
ゆえに、サッカー選手には、科学を理解する力と芸術を生み出す力の両面が必要だと思う。勿論、個人差がある。
おそらく、西洋で生まれたボールゲームは、その基盤にある社会を反映していると思う。西洋社会は、科学と芸術を尊重する。また、論理的な思考を母体にルールを確立し、それを基盤に自由競争を促すという考えがあるように思う(そのように進化してきたと見る)。言い換えれば、西洋文化の核心は、「自然の征服」という考えであるとは、言い過ぎだろうか。
他方、空手家や空手界は封建的だ。封建社会はすべてを一体化しようとする。ゆえに秩序を重んじる。私は、ある面の封建制は、家族的な小単位には必要だとは考えている。また、封建的な色彩は日本社会のみならず、世界の随所に色濃く残っている。ゆえに百歩譲って、それを良いことだとしよう。また、日本は「自然を征服しない」、「自然と一体化することを目指す」と日本賛辞をするとしよう。
しかし、それでは個々人の自由な発想が活かせない。また、既に確立された個を交流させることに障壁が生まれる。また、個を取り込み、活かしながらも、絶えず秩序を形成してという機能をもつ、ダイナミックな社会システムを創りにくい。
優れた人間が力を充分に発揮できない。そのような人は秩序を破壊する悪者、変人となる可能性がある。
ゆえに、これからの社会は両面が必要だと私は考える。「自然の征服」も「自然との一体化」も人間がより善く生きるというところから始まり、その究極形で一致して行く。それで良いではないか。言うまでもなく、西洋的なもの東洋的なものは融合している。今後もあらゆるものが融合していくことが望ましいと私は考えている。勿論、何処かのスタイルが絶対だということではない。また、ローカルな文化も残って欲しい。なぜなら、古典的なものを残すことが新しい時代を切り拓く鍵になるということが往々にしてあるからだ。
結論づければ、多様性を尊重し、それらを活かし、その調和を促し管理するような社会システムを作ることが社会のリーダーの役割だと考えている。
これからの社会のキーワードは「ハイブリット」であろう。例えば、伝統と革新、近代以前と近代、あらゆるものをかけ合わせ、再編集して行く。そのような作業が必要なのではないだろうか。
少なくとも、何事も行動を起こすことが重要だと思う。但し、行動だけでも駄目。考えるだけでも駄目。行動しながら考えるのだ。また、慎重であることと怠惰で臆病なことをはき違えてはいけない。
勿論、行動しないという判断が、時にはあるだろう。
長々と語ってきたが、フリースタイル空手の試合に参加した選手達は、行動しながら考えている人達だと思う。
その同志達の期待に応えるためにも、考えて考え抜かなければならない(悪い頭で・・・)。さらに行動を止めてはいけないと考えている。倒れるまで・・・。
※段々、話が難しくなりました。フリースタイル空手プロジェクトの実現は、とても険しい道だと思っています。皆さんは想像できないでしょうが、いつ力尽きてもおかしくありません。そのような中、私なりの楽しみ方は、フリースタイル空手プロジェクトを人と社会に役立つ、教育ソフト開発と社会変革運動だと考えることです。それなら、やりがいがあります。そして、私が人生を賭けた空手がこれ以上ないぐらいに人間の幸福感の醸成に役立つことを夢見ています。ブログは、いつも私のメモ書きのような乱文ですが勘弁して下さい。~終わり。
表敬訪問、円心会館全日本大会!
本日(25日)大阪の難波で行われた、円心会館の全日本大会を観戦した。
目的は、二宮城光館長を表敬訪問するためである。
実は二宮館長とは初対面である。勿論、現役時代二宮館長の勇姿は、私の目標でもあった。その二宮館長の演武も観ることができた。二宮館長は、現在58歳。身体は引き締まり、さらに動きは円熟味を帯び、本当に武道家らしい。
試合中、円心会館の増田師範(私と同姓)に円心会館のヒストリー等をお話し頂いた。御陰でとても有意義な時間を過ごせた。あらためて、私の表敬訪問を段取りしてくれた、福岡の林師範に感謝したい。
大会終了後、二宮館長とお話しをさせていただいたが、私のイメージ通りの方だった。
また、円心空手の競技ルールが、フリースタイル空手のルールとほぼ同じだったことには驚いた。円心空手の試合ルールは、20年もの歳月をかけて、現在のようになったらしい。
ただ、誤解を恐れずにいえば、円心空手は二宮館長の理想の空手と技を再現することを目的としている感じがする。
一方のフリースタイル空手は、多様な格闘技者ならびに格闘技術を交流させ、進化させることを目的としている。故に、双足取りや首取りという技術も認めている。それによって、総合格闘技やレスリングの技も使用することが可能になる。また、ムエタイの首相撲の技術も使える。
私の夢は、多様な打撃系格闘技の流派の代表(選手)が、共通のルール(枠組み)で交流し、その技術を切瑳琢磨するということである。その意義は、多様な空手を始め打撃系格闘技が一つの枠組みで交流できれば、サッカーに勝るとも劣らない、面白いゲーム(枠組み)と場ができるのではないかと思っている。そうなれば、空手家のみならず、打撃系格闘技者がもっと社会に承認されると考えているのだ。
つまり、フリースタイル空手は私の流派名ではない。従って、フリースタイル空手,東京オープンは、私の流派の大会とは別であり、あくまで、多様な武術家を交流させるための場のことだ。
まだまだ、書き留めたいことは山ほどあるが、報告程度しか書けない。現在、かなり頭を使う業務に立ち向かっているからだ。
今後も、円心空手やフリースタイル空手プロジェクトについて、断片的だが書いて行こうとは思っている。
是非、また、私のブログを観に来て欲しい。それでは・・・。
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夢 〜将来世代へ その1
夢 ~将来世代へ その1
【第1回フリースタイル空手チャンピオンシップス東京オープンのPV】
10月に行われた第1回フリースタイル空手チャンピオンシップ東京オープンのPVが出来上がった。
これから試合映像を編集、構成したDVDの製作を急ピッチで進める。
但し、フリースタイル空手プロジェクトには資金と人手がないので、思うようにはいかないかもしれない。参加した選手の皆さんは試合映像が待ち遠しいだろうが、このプロジェクトは皆さんが考えている数倍、大変だということを理解して欲しい。
このプロジェクトは、利害を考えない、私の心友によって成り立っている。
このPVも私の心友が制作してくれた。本人は心友と思っていないかもしれないが、私は心友だと思っている。私の回りの人達は、夢見る私を応援するという心意気で協力してくれているのだと、少々背負っていると思われるかもしれないが、私は考えている。
さて、今年も後僅かである。私の回りは、今年も現実からはなれた夢ばかりを追いかけていたように私を見ていたはずだ。しかし、自分の家族や道場の仲間のことを忘れたことはない。大会後の今は、それらのことに力を注入しようとしているのだが、能力が足りず、上手く処理ができない。
後回しにしていた身の回りのことを整理している中、イタリアからメールが届いた。そのメールには、第2回のフリースタイル空手イタリアオープンを来年、主催するとの旨が書かれていた。また、イタリアでのセミナーも企画するとのことである。私には、来年以降のフリースタイル空手プロジェクトの予定の草案はできている。ゆえに身の回りの処理を含め、準備を急がなければならない。
(明日に続く。PVは土曜日にアップする予定である。まだ手許に届いていないからだ)
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夢 〜将来世代へ その2
夢 ~将来世代へ その2
【第2回フリースタイル空手チャンピオンシップス東京オープン】
第2回のフリースタイル空手チャンピオンシップス東京オープンは、2014年の2月に開催予定である。目標としては、東京オープンを日本オープンに変更したい。そのために2013年は、地域の大会を多く開催し、その中の優れた選手だけを日本オープンに集める形を創って行く予定だ。さらに2015年は、フリースタイル空手ワールドカップを開催する。
つまり、3年後にフリースタイル空手の世界一を決めるということだ。
繰り返し言うが、フリースタイル空手は空手流派の名称ではない。それは、多様な格闘技流派が技を競い、交流するための格闘技スポーツの名称だ。
言い換えれば、私は多様な格闘技と格闘技者(立ち技だけの限定があるが)が技を競い合う、ゲームソフトのようなもの(競技ルールと場)がフリースタイル空手だ。
第一回の大会、無差別級では、円心会館の選手、円心空手の技が輝いていた。円心空手とは、極真空手で日本一、世界一の実力を誇り、柔道でも四国チャンピオンだった二宮城光館長率いる円心会館の空手のことである。また、中量級では、総合格闘技、パンクラスの選手が輝いていた。その他、様々な流派の選手が他流派との戦いの中で輝いていた。
【拓真道の道場の開設】
私の流派は、軽量級では優勝、無差別では三位入賞という結果であった。選手達は良く頑張ったが、次回は優勝を真剣に目指す。そのためには、極真空手とは別にフリースタイル空手・拓真道の道場(クラス)を立ち上げる予定だ。
詳しくは、来年以降になると思うが、簡単に報告すれば、極真空手の伝統はそのままにして、フリースタイル空手に対応する技術は拓真道(私の創設する武道)で普及するということだ。また、拓真道は、フリースタイル空手競技に対応するのみならず、頭部打撃や関節技等、護身のための技も修練する。
現在、私が教える極真空手は極真空手の伝統技の他に組手技の修練がある。それらの体系は膨大な量になり、生涯修練しても時間が足りない程だ。
また、今後も新しい技を融合すると同時に古典的な技の研究と復興が私の武道家としてのライフワークであるが、それをみんなに強制するのは止めにする。これまでの私は、道場生を自分の息子と同様に考えて来た。ゆえにすべての道場生に私の持っている武道家としての知識や技をすべて体得させようと考えた。しかし、個人の意志や嗜好、資質などを尊重しなければ上手くいかないことを悟った。ゆえに、極真空手とは分けて、新しい武道と武道スポーツの普及をすることとする。
具体的には、増田派の極真空手を学びたい人は、IBMA極真会館へ入門する。また、フリースタイル空手競技と拓真道を学びたい人は、拓真道の道場へ入門する(場所は同じ極真会館増田道場ではあるが)。その他、単純にフリースタイル空手競技を楽しみたい人は、様々な流派が主催するフリフリースタイル空手クラブに入会し練習すれば良い(今後、フリースタイル空手クラブを開設してくれる仲間を募集する予定だ)。
勿論、私の道場で極真空手を学ぶ人の中で、新しい武道(拓真道)を学びたい人は、拓真道のクラスに参加して欲しい。増田道場生が拓真道を学びたい場合は、入門ではなく、登録のみで参加可能とする。また、先ずは極真空手から始め、徐々に拓真道に参加するのも良いだろう。拓真道の修練システムについては、今後周知させたい。
尚、拓真道は外部からも門下生を募集するので、門下生はすべて白帯からのスタートである。但し、昇級・昇段システムは、とてもシンプルである。ある程度の格闘技の経験がある人は、すぐにでも茶帯に認定されるだろう。さらに、黒帯も柔道のように試合経験と組手型の審査をクリヤーすれば、取得できる。つまり、体力とやる気のある者であれば、一年で黒帯が取得できるはずだ。おそらく、IBMA極真会館の道場生でフリースタイル空手を体験したことのある者なら、すぐに黒帯を取得できるだろう。詳細は、来年以降発表する。IBMA極真会館の会員で武術の研究と立ち技の格闘技スポーツ(フリースタイル空手)を楽しみたいと思う者は、是非、拓真道を学んで欲しい。そして、3年後のフリースタイル空手ワールドカップの世界チャンピオンをみんなで育てよう。
(明日に続く。PVのアップは明日の予定だ)
●下の図は完全ではない。参考程度に見て欲しい。フリースタイル空手は、競技ルールと競技の場だ。そして、IBMA極真会館道場や拓真道の道場、多様な流派の道場や格闘技ジムも、独立してはいるが、フリースタイル空手(ルールと場)を共有することで繋がる。
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夢 〜将来世代へ その3
夢 ~将来世代へ 最終回
【フリースタイル空手プロジェクトの目的】
最後に、私がフリースタイル空手プロジェクトを推進する目的は何か?
一言でいえば、空手を行う子供達に夢と希望を与えるためだ。そのようなものを残すことが、先に死んでいく者の誇りになり、満足になる。
補足すれば、空手武道を人と社会になくてはならないものにすること。
つまり、空手武道を社会体育と人間教育に貢献する文化的ソフト(教育手段)に高めるということだ。
空手は現在、愛好者の数も多く、充分、社会体育に貢献していると思う。私は、それをさらに進化させ、将来の社会を担って行く子供達、そして中高年の社会体育と人間教育になくてはならないものにしたいと考えている。
例えば、空手のみならず多様な格闘技愛好者が、多様な流派の看板を背負いながら集まり、公明正大に技と心を競い合う。そのような場ができたら、格闘技がもっと輝く。また、フリースタイル空手トーナメント(競技)が流派間の戦いに見えたとしても、それは対立的争いではない。あくまで、同じルールと価値を共有する仲間同士の交流である。また、安全性を確保した上で、公正性、開放性、創造性、実用性をより高めた格闘競技がフリースタイル空手なのだ。その目標は、格闘競技をフットボール(サッカー)のようにすることである。
想像できるだろうか?人間は多様である。ゆえに空手や格闘技のスタイルも多様で良い。しかし、多様な個性が互いに対立し、否定し合うのではなく、影響し合い、高め合う。そして互いを承認し合う。そのような状態、状況を空手や格闘技者が実現することができたなら、必ず格闘技は、高い社会的承認を得られるようになるはずだ。これまでの空手や格闘技は、見た目の強さを競い、それを表現する手段であった。私は今、そのことを否定しないが、それとは異なる価値を提示したい。
【外部の人達が納得できるルールの設定~バイアスの除去】
重要なことは、礼法(マナー)を護り、内部の人達だけが納得できるルールではなく、外部の人達が納得できるルールを設定することだと考えている(ルールに興味がある人はIBMAのサイトをご覧下さい)。
既存のルールにはバイアスがかかり過ぎている(偏見に左右されやすい)。それを改善するには、ルールを一旦解体して、新しい枠組み(ルール)を提示するというのが、私がここ数年やってきた仕事だ。
そのような構想の有効性は、武道とは、異なる分野の勉強をする中で確信となりつつある。ただ、その構想が実現するには、あと何をクリヤーすれば良いのだろうか・・・。
稚拙な例えを繰り返し恐縮だが、私の描いた絵は、今は理解されていないが、必ず売れるようになる(正直言って、私が生きている間、絵は売れないかもしれない・・・いつも家族に申し訳なく思っている)。
また、私が最も嫌いな俗っぽい宣伝の仕方だが、フリースタイル空手は、ドラゴンボールの「天下一武道会」に最も近いスポーツ武道になるだろう。
その核心は、空手や格闘技の有する現在のマイナーな価値を、多様な人間の言葉を超える交流手段(コミュニケーション手段)という、新たな価値に再編集することだ。そうなれば、格闘技が21世紀にふさわしい人間教育ソフトに生まれ変わる。さらに、これまでマイナーだった空手や格闘技が社会においてメジャーな存在になり、子供達に夢と希望を与えられるようになるだろう。
兎に角、大人達に考えてもらいたい。子供達に夢や希望を与えることが、大人の仕事、責任ではないだろうか。それは子供のみならず、大人自身の誇りを育むことに繋がって行くはずだ。
(終わり~選手の皆さん、大会DVDは来年1月頃になると思います。なるべく急ぎますので、お待ち下さい)
仕事を終えて
【仕事を終えて】
思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。
マザー・テレサの言葉
先日、上記の言葉に出会った。
私はその言葉に釘付けになった。
正直、何処かで聞いたことがあるように思った。その理由は後から分かった。
その言葉に似たものに“ヒンズー教の教え”がある。私は、その言葉を憶えていたのだ。以下はヒンズー教の教えである。
心が変われば、態度が変わる
態度が変われば、行動が変わる
行動が変われば、習慣が変わる
習慣が変われば、人格が変わる
人格が変われば、運命が変わる
運命が変われば、人生が変わる
(ヒンズー教の教え)
ヒンズー教の教えの方が具体的だが、何故か、マザー・テレサの言葉の方が心に響く(シンプルで憶え易いからだろう)。
私は、愚息にこの言葉を伝え、説教をした(3分間だけ)。
こましゃくれた息子は、「もう僕は駄目だ、運命だ」と嘆いていた。
私は、「ふざけるな」「まだ僅かしか生きていないのに、何が運命だ」「今すぐ運命を変える努力をしろ」と叱った。とは言うものの、普段からふざけてばかりの父親の説教は、愚息には馬耳東風のようであった。
瞬間、こんな愚息に育ったのは、私自身の責任だと、自覚した。
今日は、道場の昇級審査会だった。
朝、家を出る時、「運命を変えろ」「そのためには、マザー・テレサの言葉を心に刻め」、そう思って審査会に臨んだのだが・・・。口の悪さは既に性格になっているかもしれない。人間の脳というのは、様々な想念が浮かぶのが常態のようだが、なるべく善きことを思うようにしたい。また、思うだけではいけないだろう。言葉と行動を変えなければ・・・。なぜなら、思うだけではなく、“行動”の中で“善き想い”が習慣化し、性格となり、運命になって、人生に反映されて行くのだと思うから。
それは、人生のルールだと思う。
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どうしても理解できない!
アメンバー限定公開記事です。
選手の皆さん、感謝しています!
選手の皆さん、感謝しています!
~私には最高の空手が見える
フリースタイル空手プロジェクトに協力していただいた皆さん。新しいバージョンのプロモーション映像(PV)が出来上がりました。
是非見て下さい。
フリースタイル空手の大会の映像がもうすぐ出来上がって来ます。
それを、構成してDVDの製作並びにフリースタイル空手専用のサイトを作りたいと考えています。
さて、企画しているサイトでやりたいことは、世界中の格闘技流派の映像を投稿してもらって、それをみんなで共有することです。
例えば、そのサイトに、今回のフリースタイル空手で優勝した、円心会館の試合映像を投稿してもらいます。そこでは、円心会館の宣伝もしてもらっても良いです(むしろ、して欲しい)。
そのサイトを訪れる人は、円心空手のすばらしさを理解し、フリースタイル空手での活躍を期待するようになるでしょう。
私は、多様な流派が交流するためのソフト(競技ルールと場)として、フリースタイル空手が役立てば良いと考えています。
その目標は、各流派が技術をさらに高め、すべての格闘技者が流派は異なっても、みんな格闘技を大切にする仲間だとの認識を持てるようにすることです。
そのような方法で、フリースタイル空手を共有する仲間を増やしていこうと考えているのですが、少々疲れ気味です。大袈裟ですが、最後の力を振り絞っている感じです。
私の構想が、中々みんなに届かないようです。ここ2年間は、フリースタイル空手プロジェクトに掛りっ切りでした。それで、この程度の成果だから、いつも私は自分の能力のなさを嘆いています。
また、広まらないのは、フリースタイル空手構想に魅力がないのからだという声が聞こえてきます(私の被害妄想かもしれませんが・・・)。
今年も終わりです。急ぎます・・・。現在、一日も速く、フリースタイル空手の入門書を制作したいと考えています。しかし、私には心を悩ませることがあります。
また、そのような悩みを持つ弱い人間にとって、フリースタイル空手構想は、手に負えない程の大きな構想のようにも思います。
ゆえに撤退もあるかもしれません。それをいつも思いとどまるせるものがあります。それは、最高の空手が私の眼には見えるということです。そして、それを将来世代に繋いでいくためには、空手界のシステムを変えなければならないとの強い自覚と使命感があるからです。
確かに、人がついてこなくては、意味がないと思います。その一方で、人がついてこなくても、私自身の才能を発揮し、一石を投じることは、大きく見れば、空手界に貢献すると思ってもいます。
昨日、プロモーション映像の製作をしていただいている、映像クリエーターの神田さんと話をしました。その神田さんが、試合の有効技を数値化し、知らせるのは非常に良いとフリースタイル空手の試合映像を見て感じたそうです。
私が、フリースタイル空手は組技が有利ではないかと、言っている人がいると、悩みを吐露したら、「自信を持ってやれば」と励ましていただきました。また、「総合格闘技も変化してきた」、「例えば、寝技が主流の戦い方から立ち技が主流の戦い方と言う風に」。と教えていただきました。
確かに、今回の大会では、突き技が余り目立ちませんでしたが、私の頭の中には、突き技で相手を倒すイメージがあります(もちろんフリースタイル空手競技の中で)。
要するに、神田さんの言われることは、相手が組んでくるのに対し、突き技で倒す、ファイターと技術が出てくれば、そのような戦い方を真似て、それがブームになるということだと思います。
そのような提案も含め、これから、入門書の製作、試合や戦い方に関する私の解説並びに批評をしたいと考えています。
少しだけ、お伝えすると、掴んでの崩しは有効かつ強力な格闘技術ですが、それを封じる、否、活用する手はあります。
また、それに抗する技術を身につけたければ、その技術を受け入れなければならないという原則を忘れないで下さい。これは、フリースタイル空手・拓真道という私流の武道哲学の基本です。
また、タックル(フリースタイル空手では双足取り)は、打撃技の一種として考え、それを体捌きで対応するという認識に変えたらどうでしょうか。
私は、タックルを有効にした競技を行うことは、必ず空手家にとっ有益だと考えています。具体例を挙げましょう。
私は、極真空手の駆け出しの選手時代(30年近くも前になるかもしれない)の頃の話です。私は、身体の大きい外人選手に対し、体捌きを使い、相手の圧力を殺し、蹴りを放ちました。その技の準備段階(作り)として、体捌きがあったのです。そのような体捌きを使えたのは、星稜高校生時代、レスリングを少し学んだからだと分析しています。
もう少し具体的に言います。相手のタックルを切り、相手バックを取るというレスリングの技術をご存知でしょうか。レスリングでは基本的な技術です。それと、相手の圧力を体捌きで殺し、自分に取って有利な位置取りをするという原則は同じなのです。
それが、現在では当たり前のようになっている「回り込み」という技術、概念の原型です。しかし、極真空手の多くの人達はその原理を分かっていないように思います(きつい言い方になりますが、一番浅い理解をしていると思います)。もし、分かっているのなら、レスリングのタックルに、もう少し上手く対応できるはずだし、それを極端に嫌うことはないでしょう。
最後に、試合の映像を見て、真っ先に思い出すのは、選手達が私の夢に
協力してくれたことです。本当に感謝しています。冥土の土産にします(笑い)。
悪い冗談は止めて、必ずフリースタイル空手を仕上げます。もう少しお待ち下さい。
白兵戦において寝技は有効かどうか?
【白兵戦において寝技は有効かどうか?】
格闘技研究の学者である菱田氏から、メールで意見を求められた。現在、アブダビの軍隊では、寝技を兵士の正規の訓練に採用しているようだ。菱田氏は「白兵戦において寝技は有効かどうか」と意見を求めて来た。その返事を掲載したい。
断っておくが、私は寝技が必要でないと考えたことはない。最低限の寝技の研究はしているつもりだ。また、私は立った状態での戦闘力を補うためにも、寝技を研究したいとも考えている。ここで掲載する意見は、あくまで理論的に考えた上での意見だ。
【私の意見~菱田氏への返事】
先ず、白兵戦自体が、現代の戦争では、かなり特殊で限定的な局面を想定していると思われます。つまり、1対1、1対多数というより、兵士の気力、体力の訓練的な意義が大きいと言ったら言い過ぎでしょうか。
勿論、あらゆる戦闘状況を想定して、訓練をするということが大前提であるは思います。しかしながら、火器が中心の現代の戦闘(戦争)では、白兵戦自体の重要性がどれほど意識されているのでしょうか・・・。
以前、「アブダビは、皇太子がグレーシー柔術のファンで、国民の士気を高める意味で、ブラジリアン柔術の普及を推進している」。そのように菱田さんから聞いたように記憶しますが・・・。つまり、寝技がどうこう言うより、好みで決めているのではないでしょうか。前置きが長くなりましたが、もし、質問の意味が、「寝技が白兵戦には有効ではないのでは?」ということでしたら私の意見を述べさせていただきます。
確かに、小武器の使用が想定される白兵戦においては、寝技は有効ではないと思います。なぜなら、立った状態の方が、より機動性が高く、多様な戦闘局面への対応力が高いからです。ただし、寝技の訓練が必要でないということではなく、戦闘局面の確率論的な、優先順位という観点での意見だということだと断っておきます。個人的には、寝技は必要だと思います。また、立った状態での格闘にも通じる原理が含まれていると思います。
以上の意見は、あくまで、限られ訓練時間における、白兵戦により有益な徒手格闘の訓練という観点です。
なぜなら、繰り返しになりますが、立ち技の格闘術の方が、より機動性が高いからです(ただ、体捌きがほとんどない、極真空手の機動性が高いかについては、疑問ですが・・・)。
さらに補足を加えれば、徒手格闘の訓練の際は、立っている状態(スタンド状態)において、いかに多面的に空間を把握できるかを基本としなければなりません。しかし、その辺の部分が1対1の勝負に偏重した、既存の武道競技によって刷り込まれた戦闘観では、理解できないのではないかと思います。
ここで私は、1対多数を想定しろという短絡的なことを言いたいのではありません。1対1であっても、空間を自在に活用するという観点が必要だということです。
現在、日本の武道競技は、格闘術の訓練というよりは、見事な技を評価することや勝者を何が何でもきめるという価値観を優先しているかに見えます。
手前味噌になりますが、私がフリースタイル空手において、「背後取り」という格闘技術を取り入れたのは、実は1対多数に対応するための格闘術を身につけるためでもあります。
「背後取り」とは、一瞬にして、正面の敵の背後に回る(位置を取る)技術です。その技は、自分の背後、左右にいる敵を、一瞬にして、正面に据える技術に繫がっているのです。つまり、この相手の背後に回るという技術が、1対1でありながら、1対多数、多数対多数でも有効な戦術なのです。また、立ち技格闘技の基盤は、突きでもなければ蹴りでもありません。機動性であると私は考えています。ゆえに、その基盤を奪われないために、「倒れない」「倒されない」ということを目標とする、フリースタイル空手を創設したいと考えているのです。
余り、適切な意見ではなかったかもしれません。質問の真意が理解できていないので・・・。すみません。
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本日は選挙だ
本日は選挙だ。政治のことは、あえて話題から避けてきた。
しかし、私は政治にも興味がある(社会人として当然だ)。
今回の選挙は、早くから私が予想した結果に近づいている。
私のような庶民が、誰よりも早く、選挙結果を予想できたのに、なぜ政党は対策を打たないのだろうか?また、メデイアの責任として、その状況を伝え、もっと建設的な議論をうながさなければならないと思う。
今回、残念な政党が一つある。しかし、その政党が駄目な理由が、はっきり分かった。
話は変わるが、今朝、雑誌の原稿の締め切りだった。確認原稿が明け方3時に送られて来て、それを修整して送り返すと、4時過ぎになった。
フリースタイル空手の大会の記事は、いい加減にはできない。なぜなら、小さいことにも全力で取り組まなければ、FKP(フリースタイル空手プロジェクト)は、終わると思うからだ。
さて、ちょっと睡眠不足だがさて、投票に行くとする。この国のリーダーを選ぶ観点並びにシステム自体が悪いということに、国民が早く気づいて欲しいと思いながら・・・。