人間は、皆同じ。でも、一人ひとり異なります。
言葉として考えると、非論理的だと思います。
しかし、真実の世界は、言葉による、論理的な世界とは異なります。
その意味は、人間は通常、腕があり、足があり、眼があり、耳があり、鼻があり、口があります(勿論、例外もあります。それは悪いことではありません。そのような人も人間です)。
つまり、私が言いたいことは、フレーム(枠組み)は同じだということです。
また、腕は肘の反対に曲げることができますが、肘側には曲がりません。つまり、ルールは同じです。
ようするに、人間は同じ枠組み、ルールを共有しているのです。そのことが、人間は皆、同じということの意味です。
しかし、その人間が一人ひとり異なるのは、なぜでしょうか?
もう、ご理解頂けたと思います。
それは、使い方が異なるのです。
使い方が異なることが文化の創造のルーツかもしれません。それでは、なぜ使い方が異なるのでしょうか?
そのようなことを考えていると一日がすぐに過ぎてしまいます。短い時間で考えてみます(直観的に)。
私は、それは哲学の違いだと思います。哲学と言うと難しく感じるでしょうが、それでは、“ものを思うこと”と考えてみて下さい。
私は、人間は、身体という枠組みとルールを使い、ものを思うことによって、自分を作り上げるのです。世界で唯一の・・・。
しかし、その哲学は、他者の影響を受けます。
ここでいう他者とは、自分が所属する(自分を護ってくれていると考えられる)、社会構造や既存文化の体系(伝統的文化)、自然環境等々、自分の身体が感じ取る、すべてのものを指します。
ゆえに、人間は自分の意志で自由に行動等できません。必ず、他者の影響を受けています。それが、不自由という感覚を生み出すのではないかと思います。
また私は、人間とは本来、不自由ではないかとも思っています。
しかし、自分の身体から、何かを生み出す時、人間は自由を知るのです。
それが、自由の意味だと、私は考えます。
ゆえに、例え、眼が一つ無くても。足が一本無くても、自由の本質とは関係ありません。もしかすると、その方が本当の自由を知る可能性が高いかもしれません(普通は不自由だと考えるでしょうが)。
私達は、新しい何かを、絶えず生み出さなくてはなりません(独自の)。それが、喜びであり、自由の獲得だと思います(もしかすると、人間は自由にはなりたくないと考えているようにも見えます。自由の獲得には、自分との戦いが必要だから・・・)。
51才の誕生日の朝、少し風邪気味で調子が悪い中、考えてみました。
日本に帰ったら、再考します・・・。
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自由の意味?〜自由を最も大切にする国、フランスから
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