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Channel: 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
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三島由紀夫について

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【三島由紀夫について】デジタル空手武道通信 第57号 編集後記より

 

 過日、石原慎太郎氏が亡くなったと聞いた。石原氏に対する評価はここではしない。ただ、石原氏が、私の父と年齢が近いこともあり、寂しい気持ちが湧いたことだけは書き記しておく。

 また一人、また一人と先輩がいなくなる。本当に寂しい。雪降る故郷の父に電話をかけた。ただ「身体に気をつけて」「コロナが収まったら会いに行くから」とだけ伝えたかった。

 

 私の原動力は、幼い頃から寂しい気持ちだった。理解できないかもしれないが。また、何もないところから何かが生まれるなどとは想像もできない。むしろ、混沌の中から新しいものが生まれるといったイメージの方が理解できた。しかし、何もない荒野から何かが生まれるようなイメージが浮かぶ時がある。今、幼い頃のように、訳のわからないことを考えている余裕はない。

 

 さて、石原慎太郎氏に関しては、文学者、政治家としてよりも、三島由紀夫との友人として興味があった。誤解を恐れずに言えば、石原氏は三島氏をよく馬鹿にしていたように思う。

 

 もちろん、三島氏と石原氏のやり取りの場にいたことはない。ゆえに本当のことはわからない。だが、活字に残された石原氏の言動を、石原氏らしいなと思ったのを記憶している。同時に三島氏が理解されないことに寂しさを感じていた。

 

 私は三島のファンである。だが、文学に対するファンではない(文学は語れない)。彼の思想家としての活動に強く共感するからだ。私はコロナパンデミックが拡大する直前だったか、三島由紀夫氏のドキュメンタリー映画(三島由紀夫VS東大全共闘〜50年目の真実)を見た。私は三島氏の態度に尊敬の念を持った。

 

 忙しいに日々の中、その映画のことを忘れていた。だが、石原慎太郎氏の逝去で三島由紀夫氏のことを思い出した。大好きな人の姿を再び、ネットフリックスで観た。

 

 僭越ながら、三島由紀夫の言葉から感じることを書いてみたい。あくまで増田が三島氏の言動から感じる部分として、他の三島シンパの方々には容赦を願いたい。

 

 『人間が「私(自)」として誕生し、かつ生かされる基盤は言葉によってである。その言葉はあらゆるものを創造する力を持つが、同時に絶えず無秩序に向かう。だからこそ秩序を形成する「力」が必要である。秩序を形成する「力」がなければ、私は担保されない。また、その「力」は共同体と文化によって担保される。言い換えれば、その「力」の遠心力を抑制し、制御する絶対的な「力」が必要である。それが天皇という絶対的な力(存在)なのだ。

 ただし、その力(存在)は、決して私的なものであってはならない。それは私的なものを統べる公的なものでなければならない。それは、決して機関の一部ではない。

 天皇の存在とは、日本人の叡智であり、例えるならば、日本という大地が有する力なのだ。また、その大地、土壌を守ることが、我々日本人の責任だと。

 さらに言えば、その大地、土壌としての日本を汚し、壊す権利は誰にもない。あるのは、それを護る義務と責任だけだ(増田 章)』

 

 三島由紀夫の幼少期は、ひ弱な少年だったと思う。しかしながら、文学、言葉の力によって、内なる力を顕現させた。晩年、マッチョな自己を追い求めたのは、その文学の主題であった「エロティシズム」の延長かもしれない。だが、そうではなくて、自己の身体に自信を持った時に「エロティシズム」の果てに新たな地平のあることを直感したのだと思う。つまり、「自」を本当に護るものとは、日本語(母国語)であり、文化であると。そして、それらを護るものが母体としての共同体(日本国)であり天皇だと。

 

 身体(個体)は、共同体(自他の集合)によって育まれ、生かされる。だが、共同体は自らの組織を守るため、時に自(私)の身体(個体)を殺す。しかし、三島氏は自(自)を護るために、共同体を創り変えなければならない、と感じたのではないだろうか。それが知性ではなく、身体で理解できたのだろう。おそらく三島由紀夫氏は、本来、人を傷つけることなどしない、とても優しい人だったのだろう。しかし、身体(ある程度頑強な)を持ちえた時に転換があったのではないだろうか。その地点から、「自」と「他」を捉え直して、天皇を考えたのかもしれないと思っている。

 

 映画の中、東大生を前にした三島由紀夫氏は、「非合法な暴力は否定しない」と語っていた。その裏を考えれば「合法的な暴力の欺瞞」を示唆していたのであろう。また、国家もある意味、暴力装置である。映画では、その理不尽さに抵抗する若者たちに共感を示しつつも、もっと人間の根源的な部分を基盤に東大の学生と対峙していた。それは、若者に対する愛情、そして敬意が溢れていた。私の感性では落涙するぐらいの感動である。そのように感じるのは、多くの権力者は、若者や女性を見下し、時に感情的に罵倒する。そんな政治家、知識人、指導者は、私が最も良くないと思うあり方だ。もちろん、私にもそのような面がないとは言わない。しかしながら、それは命懸けで抑制しなければならないことなのだ。補足すれば、三島由紀夫氏の思想は、まさしく「知行合一」であった。また三島氏は、文武両道(文武一道)の徒だったと思う。

 

 私の想像だが、、戦前、戦後の大人の態度のあまりの変わりように、若い三島由紀夫も「本当の強さとは何か」を考えたことがあったのだと思う。そして、辿り着いた境地が、先述した今を生きる者の責任と義務である。

 

 【極真会館のこと】

 ここまで書いて、直感することがある。我が極真会館のことである。なるべく端的に述べておく。極真会館の分裂は、決して選択してはならないことだった。そして分裂の原因は、全ての支部長、チャンピオン、そして私(増田)が間違っていたからだ。正しかった者は一人もいない。私は、立場の違いの正論などという考えは、偽善的、かつ欺瞞だ、と思っている。

 極真会館を壊す権利は誰にもない。あるのは護る責任と義務だけだ。そして護るべきは、ただ一つだった。大山倍達先生が作り上げた世界大会である。今からでも遅くない。そのことが理解できれば、一つにできる。

 

 三島由紀夫氏の話に戻るが、これからの日本も同様である。日本と日本人が自覚しなければならないことは、その責任と義務である。それを伝えるために、思想的な変革が必要だと唱えたのだろう。だが、多くの人に理解されず、嘲笑された。おそらく非現実的だと。だが、私はそうは思わない。

 蛇足ながら、三島由紀夫氏は空手も習っていて、ある対談集の中で空手を語っていたが、その部分はいただけない。もし、同じ時代を生きていたなら、私の空手武道観を提示したい。そして、三島由紀夫氏を支持したい。


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