どのように相手を撃つか(打つか)〜拓心武術の戦闘理論
【相手を撃つ(打つ)とは】
TS方式の組手仕合を行う際、心に留めておくと良いことがある。それを心に留めて組手を行えば、相手への攻撃をより善く行えるようになるだろう。
さて、空手の組手修練において相手を打つ(撃つ)とは、相手を突き技や蹴り技で攻撃することである。いうまでもなく、攻撃技はより効果的に繰り出さなければならない。空手の突きや蹴りは技であるからだ。技は実効があってこそ技である。だが、組手においては、相手を突きや蹴りなどの技(攻撃技)を繰り出せば、相手は防御体制をとったり、防御技を駆使するかもしれない。また反撃もあるかもしれない。そのような状況の中で、自分の技(攻撃技)を実効たらしめることは容易ではない。では、私がこれまで、より良く相手を撃つ(打つ)ために意識、かつイメージしてきた事柄について述べてみたい。
まず、組手における戦い方の基本は、絶えずヒットポイントを狙って攻撃技を繰り出すということである。ヒットポイントとは攻撃目標のことだと言っても良い。また、ここでいうヒットポイントとは、相手によりダメージを与える箇所である。
【組手において攻撃目標は絶えず変化している】
そんなことはわかっていると思われるかもしれない。だが、攻撃目標をどのようにイメージしているかが問題である。私は、「組手において攻撃目標は絶えず変化している」と捉えている。その意味は、相手は攻撃技を繰り出し、かつ攻撃に対し防御することもある。要するに、私は攻撃目標を取り巻く状態、自分の状態との関係性を含めれば、攻撃目標は絶えず変化していると考えているのだ。また、攻撃目標を取り巻く状態の変化を簡単に述べれば、無防備か防御技×反撃技が準備されているかでは状態が異なるという事である。
そのような状況では、サンドバックを打つように技は決まらない。また一つの攻撃技のみでは、相手に攻撃を予測され、簡単に防御されるか、攻撃の際に生じる隙を衝かれてしまうだろう。
私には、組手の最中、相手のヒットポイントが絶えず数値化されているかのように見えている。例えば、こめかみ、あご、脇腹、太もも、など、何箇所かあるヒットポイントの防御体制(態勢)の良し悪しの判断を、「ここは命中する可能性が100%、ここは命中する可能性が30%…」というように見えている(感じている)。より正確に言えば、数値が見えているのではない。もしA Iが判断するならそのように攻撃箇所を数値化する公式とその数値の演算処理によって最適解を導き出すのであろう(AIのことはよく知らないが)。だが、私の場合は、その可能性を数値の高低を大まかに判断はする(判例を参考にして定跡的に)が、必ずしも数値の高い箇所に攻撃するわけではない。また、絶えず変化し続ける状況の流れを読み取り、定跡は一応、頭に入れた上で、命中の可能性が低い箇所を撃つ(攻める)時がある。それは、その撃ち(攻め)が次の展開に善いと「感じる」からである。うまく表現できないが、命中可能性が100%に見える箇所や技では、相手の防御技能が巧みな場合、相手を打ち崩す事ができないと感じるからであろう。また、強敵には100%確実な攻撃箇所など、ほとんどないと言っても良いと思うからだ。さらに、その可能性は絶えず変化している。ゆえにA Iのように計算している時間はない。瞬時に局面を把握し、変化を捉え、その中からより可能性の高い箇所を感じ取らなければ、戦いの状況では判断が遅すぎることにつながる。もちろん、命中の可能性の高低は、相手側の要因のみならず、自己の要因、すなわち攻撃技術の精度などにも関係するので、そんな単純な話ではない。その部分は、今後、研究が進めば考えをまとめたい。
実は、私は狙いたい攻撃目標・ヒットポイントに対し、なるべく命中の可能性が高まるまで、相手の状態への変化を待っている。また、相手を動かし崩して、その可能性を高めるということを考え、試みている。ただし、こちらがのんびり構えていると相手が攻撃を連続して仕掛けてきて、自分の体制(態勢)が崩れる場合があるので、たとえ命中の可能性が低くとも相手を攻撃しておかなければならない。それが牽制の意義である。
おそらく、私がそのようなことを考え組手をしていることを誰も知らなかったと思う。また理解されないかもしれないとも思っている。
つまり、私は攻撃目標を数値化して見えていると述べたが、実際はここが何%であそこは何%というように認知しているのではない。あくまで私の感覚の例えだ。数値は浮かばないが、私は感覚的に可能性の高低を認知しているのである。私は、そのような感覚が重要だと考えている。
【組手の意義とは何か?】
少し脱線を許していただくと、多くの人の組手に私同様の視点があるとは思えない。その理由を一言で言えば、組手法がよくないからだ。その原因は、組手の目的と方向性の設定が不明瞭だということにあると思う。もちろん、様々な組手法には、それなりの目的と方向性はあるかもしれない。だが、私が述べる戦いの理法(戦術論)を理解するためには、「従来の組手法を見直す」という視点が必要だ、ということをあらかじめ伝えておきたい。今回、どのような組手法が良いか、という論に関しては展開しない。ただし、私の提唱する拓心武道の組手法においては、目先の勝負に勝利することを目的とはしないということだけは断っておきたい。
では、増田武道メソッドである拓心武道における組手の意義とは何か?それは武術の技法の活用並びにその技能習得を通じ、道を追求することだ、と言っても良い。また、道(真・善・美を顕す理法)に出会い、かつ、道の追求(修行)を人格陶冶・人間完成の道に生かしめることである。ゆえに、私の道場における組手修練は畢竟、チャンピオンシップ(競技大会)のためにあるのではない。また、極真空手の基本と直接打撃性の精神を伝えているが、競技や競技法を伝えることを目的としてはいない。
あえて言えば、極真空手が文化として認められ、より高い次元で社会貢献できるように、その思想と技法、また修練法を進化させることである(組織的に非常に困難な状態にあるが)。そのように言えば、不遜な考えだと、諸先輩の方々にお叱りを受けるだろう。しかしながら、天に在る、先師だけには認めていただけるよう、私は命懸けで修行を続けている。
【命中の可能性がわずかしかない箇所への攻撃】
話を戻して、攻撃の基本としては、命中の可能性のより高い箇所への攻撃だ。だが、先述したように、攻防が交差する組手・仕合にあっては、命中の可能性がわずかしかない箇所への攻撃を行うことがほとんどである、という現実がある。
例えば、命中の可能性が高く感じるという、自分自身の認知が、必ずしも正しいとは限らないからだ。例えば、自分の狙い定めた攻撃目標が、相手に予測され、かつ万全の反撃態勢が準備されていることがある。本当の強者とはそのような者だと思うが、そのような者との対戦は、基本原則を踏まえながらも、相手の手の内を探りつつ戦うことが必要になるはずである。
ゆえに、相手を陽動し、手の内を見定め、かつ崩し、より命中の可能性の高い箇所を動きの中、変化の流れの中で生じさせるという技能が必要だ。
【基本技術と技能の関係】
ここで理解してほしい事がある。それは基本技術と技能の関係である。要するに、高度な戦術を実行するための必要条件として精度の高い技術があるということ。そして、高い技術による成果をもたらすための十分条件として、高い技能があるということである(ほとんどの武道家が理解していないと思う)。ゆえに武道修練とは、本来、型稽古と仕合稽古の両方がなければならない。
ゆえに拓心武道メソッドでは防具を着用し安全性を確保し、かつ防御技の基本と応じ技の型(組手型)を重視し指導する。その上で組手・仕合を行うことが重要だ、と私は考えている。例えれば、柔道の修練における重要な基本が「受け身」であり、その上で「乱取り(組手)」の修練を行うのと同様だと言っても良い。拓心武道では、必ず防御技術の習得をまず行ってから組手稽古を行う。そうでなければ、基本稽古や組手型稽古で体得した技術を様々な局面、そして流れの中で生かすための稽古・修練とはならない。言い換えれば、高いレベルでの応用力の体得を目標とするからこそ、徹底した基本技術(攻撃技のみならず防御技)の習得とその精度が必要だと理解できるのだ。また、さまざまな実験的な経験を積むことにより、自らの認知能力の未熟、曖昧さをき是正(更新し)し、かつ高めていくことができる。そして、それが私のいう武道修行でもある。
【組手・仕合の修練とは】
まとめれば、組手・仕合の修練とは、徹底した基本技術と原則の実践と同時にその応用の実践である。言い換えれば、組手・仕合の目的とは、自らの武技(技術)の精度を高めることと同時に武技の活用スキルを高める修練だ、と言っても良い。ただし、そこに道の追求という視座を確立したいと私は考えている。ゆえに、これまで普及を目的に、チャンピオンシップ(競技大会)という手段を用い、結果、娯楽性を持ち込んだことに反省を促したい。もちろん、チャンピオンシップを全否定するわけではない。そのようなことも有意義だとは思う。だが私は、本来の道の追求としての武道の原点に立ち戻り、空手武道に人格陶冶の修行としての価値を付与したい、と考えているだけだ。
【他の競技に当てはめる】
最後に蛇足ながら、私は拓心武術の戦術理論である「組手において攻撃目標(ヒットポイント)は絶えず変化している」ということをスポーツ競技に当てはめることができると思っている。例えば、サッカーやラグビー競技における、ボールを回す「スペース」とは、空手における「ヒットポイント」と同じと言っても良い。もちろんスポーツでは、相手に肉体的なダメージを与えることはしないが、最終目的(制圧・攻略・ゴール)としては共通点を見出すことができる。つまり、自他双方の攻防という状況において、相手の抵抗を制し、相手を技能的に制するという点では同じだ、と私は思う。
すなわち、相手と自己の配置や状態によって、絶えず変化し動いている「スペース」にボールを回すことと「ヒットポイント」に打撃技を繰り出す感覚は同じだと思うのだ。
補足すれば、ヒットポイントへの攻撃は、相手の完全な制圧・攻略に繋がっていなければならない。同様に、サッカーやラグビーの場合、スペースへのパスはゴールに繋がっていなければならない、と私は考えている。
補足:疲れたので端折ったが、一部、書き足したり、タイトルを入れた。だが、余計難しくなったかもしれない。このコラムは、私の門下生に「拓心武術・武道」の理論を伝えるため、書き記している。