構えについて~拓心武術の戦法論(戦術理論)
少年部の生徒が
昇級審査における試合の前、小泉君という少年部の生徒が私に質問してきた。「僕の組手の構えは基本構えとは違いますが良いですか」と。私は「基本構えはあるが、組手の際は自由だ」「自分で考えて構えれば良い」と答えた。
拓心武術の組手修練における基本構えの上段とは、肘を45~90度ほど曲げ、肩の力を抜き、拳をこめかみの高さまで上げて構えるものである。小泉君の構えは、基本構えの上段を変形したものである。因みに彼の構えは基本構えの上段の腕構えを変形したものである。試合の際、彼は前腕を少し前に出し、後腕を顎の前に置いて構えた。おそらく、彼は他の生徒より背が高いので前拳(前腕)を前に出し、相手を牽制、かつ順突きを当てやすくすること。また、背の高い彼にカギ突きや上段回し蹴りで攻めてくるものは少ないから、横面(頭部横)より、顎の前をガードして、相手が間合いを詰めてくる際、いち早く直突きで対応するという戦い方が自分を優位にすると考えたのだろう。それは理にかなっている。そのように自分で工夫することを私は良いことだと思っている。だが、その構えは基本構えの応用だということを理解してほしい。
「基本構え」とはどういうものか
ここで拓心武術の組手修練法における「基本構え」とはどういうものか、述べておく。まず、「構え」とは心のあり方(心構え)を示すものである。拓心武術ではそのように説く。ただし、構えとは目的に対し合目的性を有していなければならない。ゆえに組手の際の構えは、勝つために有効なものではければならない。なぜなら、拓心武術の組手修練の目的は勝つこととしているからだ。だが、その真の目的は、目的に対し真剣に向き合うことにある。
因みに拓心武術の組手修練法とは、徒手で頭部、腹部、下腿を突いたり蹴ったりして攻撃し合い、突き技、蹴り技の技術とその防御技術の有効性を競いあうものだ。その様な組手試合では、頭部を相手の突きや蹴りから守り易い、かつ相手の頭部を突きや蹴りで攻撃し易い「身構え(自然体組手立ち)」の有効性が高い。
拓心武術における組手・仕合(組手修練)は、攻撃と防御を巧みに活用し、勝つために、より応用変化し易い構えを「基本構え」とする。だが、拓心武術の組手修錬法には徒手対徒手のみならず、徒手対小武器といった組手修練法がある。また投げ技を使っても良いとする組手修練法もある。そのように戦いの状況(想定)が変化した場合、拓心武術の基本構えは上段の腕構えから中段の腕構え、また下段の腕構えと自在に変化する。例えば、上段の腕構えは、直突きのみならずカギ突きや上段回し蹴りなどにも対応しなければならない場合に有効である。だが、相手が直突きを得意としていれば、腕構えを変形させて、前拳を前に出したり、後拳または掌底を顎の前に置き変化させる。一方、相手が小武器を使う状況においては、小手や足をを打たれる(切られる)可能性が高くなるので、腕構えを中段や下段に取ることも有効だ。要するに、戦いの状況変化に対し、臨機応変に応用変化できる構えを総じて「基本構え」とする。
全てをゴールの実現に結びつけること
少々脱線するが、闘争、戦い、組手に限らず、ゴールが明確でないことには対しては、技術も体力も戦法(戦術)も作り様がない。また、活かし様もない。逆に言えば、組手においては、技術の駆使と技能の発揮の全てをゴールの実現に結びつけることが肝要である。その様な関係性を自覚することで初めて勝つということが理解できる。
さらに言えば、人間はゴールが明確なときに心身が活性化する。つまり、ゴールを実現するために、技術や体力、技能の養成に尽力できるからだ。
また、拓心武術の組手修練においては、優れたスポーツ(ゲーム)の様な戦術論や技能論が生まれるに違いない。なぜなら、ゴールを明確にしているからである。だが、空手には、大袈裟に生死を賭すと掲げながら、目的やゴールが不明瞭な組手法、競技法が多い。
拓心武道
話を戻して、ここで断っておきたい。修練・修行法としての組手の目的、ゴールは勝つことだが、拓心武術の究極の目的は組手で勝つことではない。拓心武術のより高次の目的、また究極の到達目標に定めていることは別にある。それは、組手修練を含めた武術修練を自己の身体の可能性を拓き、心の機能を高める手段とすることである。言い換えれば、自己を活かす武術を体得するための修行により、自己を活かす道を知り、それと一体となることである。さらに言えば、その様なあり方を目指すことで武術修練が武道(拓心武道)となる。
おそらく、組手を行えば、大方の人は相手に負けたくない、と思うに違いない。だが、相手に負けたくないと思って組手を行うだけでは、勝つ道を知ることはできない。また、武道の修練にはならない。
では、組手修練における勝負を自己の成長につなげ、勝つ道を知ることにつなげるためにどうするか。それには、先ず以って戦いの真の目的を自らの心身で問い詰めること。そのことと同時に相手とのとの向き合い方を考究しなければならない。要するに自分の心の態勢を知り、かつ整える必要がある。
私は、本当の武術修練には、単なる取っ組み合いのような組手修練を行なって満足するのではなく、さまざまな鍛錬や稽古、そして体験を包括するような観点が必要だと考えている。そして、その様な観点があればこそ、組手修練が活かされ、武術修練が活かされ、人間生活が活かされると思う。また、全ての行動や行為が活かされる様に考究、かつ実践していくことで、武術が武道となるのだ、と私は考えている。
構えに対する問い
最後に、少年部の生徒の「構えに対する問い」は、相手との向き合い方を意識していたからこそ発せられたものだと思っている。だが、基本をもう少し深く掘り下げて欲しいとも思っている。原則としては、基本の応用は、基本をある程度こなしてから行うことが望ましい。だが、彼の応用は基本構えの意味を理解した上の応用だから良いだろう。むしろ、よくないのは基本構えを上段の腕構え(ボクシングでいうハイガード)としているのに、顔面なしの組手の癖が抜け切らないのか、腕構えが低いものは基本の心構えも理解していないのだろうと思っている。
繰り返すが、拓心武術の組手修錬法には打撃技に限定したもの以外にも、投げ技を有効とするもの、徒手対小武器(ナイフや小刀をイメージした組手用単棒を用意している)がある。そのような組手の際は、中段の腕構えや下段の腕構えなども用い、それらの構えが「基本構え」となることもある。基本構えに関しては、修練体系を更新する際、改めて説明したい。大事なことは、中段の腕構えも下段の腕構えも上段の腕構えとの繋がりをイメージして理解することだ。また、基本、すなわち細事をゆるがせにせず、追及していくことである。一方、「構え」が出鱈目なものは、相手との向き合い方も、自分の心の態勢も出鱈目だと言っても過言ではないだろう。そして道を知ることもできない。