先日、たまたま東日本大震災の被災者のその後を描いたドキュメンタリー番組を観た。また、すでに亡くなった名優の在りし日を映像を取り上げた(25〜30年ほど前か)、有名なトーク番組を観た。どの映像を見ても、若い頃のありがたさと生きているだけで幸せなんだな、ということを感じさせてくれた。
そう思っている矢先、知人の訃報が知らされた。コロナが落ち着いたら、もう一度会いたいと思っていた人だった。命とは儚い。また人生は短い。否、短いも長いもない。悔いなき人生を送れるか。私にとっては、それだけが勝負だ。そのために体験の中から、自分自身が納得できる意味を紡いでいる。意味はシンプルなほど良いかもしれない。だが、私のように気難しい人間はそれが耐えられない。シンプルでは納得できないのである。パズルを完成させるような意味、楽しさを見出さないければ、やってられない。だが、そうやって創り上げた意味や見出したものも全てフイクションであり、幻想だと言っても良いと思っている。同時に必死に意味を紡いでいくような行為の中に何か真理のようなものがあるに違いないとも思っている。そんなわけのわからないことを思いながら、私はいつも食事もせずにPCに向かっいる。
メッセージFrom 増田 章〜「自己活かす能力」
【拓心武術という武道は】
拓心武術という武道は、組手技という構成要素で編まれています。その中でも基本組手技とは「突く」「打つ」「蹴る」などの打撃技のことです。その他、「投げ技」や「倒し技」そして「逆技」他の技も組手技に含まれます。
ここでいう拓心武術の組手技とは、言葉のように組み合わせ、活かすことで新たな意味や心を生み出していく媒介となるものです。また組手技を組み合わ活かすことで新たな技のみならず新たな戦術(活用法)を生成化育していくものです。言い換えれば、拓心武術の修練の目指すところは、組手技を活かしていく修練を通じ、自己があらゆる武術、闘争を包括していく道(=武道)を知ることなのです。
なお、拓心武術とは、直接打撃の極真空手において、最高レベルの厳しい修行を体験した、私の経験から生み出された思想を具現化したものと言っても良いものです。ただ、その思想は単なる思いつきではありません。それは長年にわたる研究と経験に裏付けられたものです。それは私が感謝する極真空手を活かすものと言っても良いものです。同時に極真空手を基盤にして優れた格闘技、武術を包括するためのものです。言い換えれば、より高いレベルの空手武道を誕生させるための概念であり、修練法です。しかしながら、簡単には受け入れてもらえないでしょう。それは仕方のないことです、皆、自分が得すること以外はしたくないからです。
そんな中、私は愚かにも拓心武術には明確な概念と理論があるということを唱え続けています。当然、それらを実験、実証して行かなけばならないでしょう。それは大変なことですが、それを楽しんで行きたいと思います。なぜなら、実際楽しいということ。ただ、共に楽しんでいける仲間を増やすことに苦労しています。それでも、孤独の意味、そして活かし方を知らなかった幼い頃とは違います。何より、少ないながら仲間がいるのですから心強いと思っています。
【自己活かす能力】
さて、武道には古今東西、数えられないぐらいの流派が存在しています。そんな混沌といっても過言ではない中にあって、拓心武術がゴールとすることは、単なる武術的な強さではありません。拓心武術のゴールとは、「自己を活かす」また「他者を活かす」ための能力の有無と養成です。要するに、拓心武術における強さとは、「自己活かす能力」といっても良いでしょう。そのような強さの養成と発揮を理念を核とし、「技を創る」「技能を高める」「自己を形成する」ことを拓心武術の目標とします。