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Channel: 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
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不自由が自由〜パラリンピックに注目/研究科報告

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不自由が自由〜パラリンピックに注目

【研究科生へ】

  研究科生へ、私がIBMA極真会館増田道場研究科なるものを発足して、早くも2年の歳月が経った。本当に月日の経つのは早い。その間、私は極真空手の伝統技と組手技(IBMA極真会館では空手の伝統的な基本技を伝統技、増田がボクシングやキックボクシングなどから取り入れた基本技を組手技として分類している)の応用を研究してきた。同時に、伝統技と組手技の種類を全て括った基本技の確立を考えてきた。更に言えば、私が考える稽古では、伝統技の基本の延長線上に伝統型の稽古があり、組手技の延長線上に組手の稽古がある。そして、伝統技ならびに組手技の応用を学ぶ稽古法に組手型の稽古がある。

 もう一つ付け加えれば、組手型の稽古は伝統技と組手技を繋ぎ、護身術と組手を繋ぐ。そして、武道の哲学を修練者の心身に結ぶ。 ここまで読んだとして、意味のわかる人がほとんどいないかもしれない。残念ながら…。それを理解させるための修練メソッドを作るために研究科を発足した。

【研究科の1年目】

  研究科の1年目は、組手型を作ることに費やした。2年目は、そこにTS方式という新しい組手方式(修練法)の創設に費やしてきた。結果は、目標を100として、到達度は35ぐらいであろう。正直、身体を壊すほど努力した。しかし、私の力ではこれまでしかできなかった。ただ、組手法に関しては、枠組みに関しては80%できた。ただし枠組みだけである。言い換えれば、アプリケーションソフトの枠組みはできたが、その使用者である稽古生が、そのソフトウェアを用いて空手道の上達を果たすには、もう少し仕組みを作り込まなければなければならないだろう。実を言えば、組手法の枠組みができたのは、4ヶ月ぐらい前である。それまでは、ソフトとして機能するかどうか、不安だった。しかし、十分効果的な修錬法として機能することが予測できるようになった。なんとか、ここまでたどり着けたのも研究生の協力だと、感謝している。だが、依然として私の気は休まらない。のは、私の武道修錬メソッドが製品だとして、全ての道場生に、その製品を使ってもらうためには、完成度が、不十分だからである。私は今年中に完成させたいが、困難を極めている。製品としての完成度とは、世界中の空手家が私の製品を使用して、すぐにその効果を実感できるようになることである。それには理念、理論、稽古システム、競技法、評価方法などなどをわかりやすい形で完成させることである。さらに必要なことは、教本サイトをスタートさせ、それを道場生が閲覧するようになることだと考えている。私の経験では、あらゆることに上達するには、道場稽古をコンスタントに行うこと。そして独り稽古を行うことである。「独り稽古」とは、自宅、あるいは人の見ていないところで空手のことを考えることである。

 恥ずかしながら、私は時々愚痴的なことを思ってきた。「増田がもう一人いれば…」。また「優れた事務処理能力と理論構築能力を有する仲間がいれば…」。などなど、もうそんなことを考えないようにしたい。覚悟を決めろとの声が聞こえる。つまり、私は覚悟が足りないのである。とはいうものの、「えぃ!」とばかりに気合いを入れ、孤軍奮闘、いつも頑張ってきたつもりだ。振り返れば、そのように思うのは、その必要性と価値がわかるということでもある。そこまで至らない人がほとんどだろう。私は、全ては、自分の社会的な意味での「からだ(身体)」の能力を高める機縁なのだと思いたい。さらに言えば、その能力がなければ、今自分にあるもので、その機能を代用する創造性が発揮されるための機縁なのだ(此処が大事である)。そして、その機縁が自己の感覚と能力を向上させる機縁なのではないかと思うのだ。言い換えれば、その不自由感が真の「自由」を知る機縁なのである。

【基本ができていない】

 さて、研究科生のみならず道場生に伝えたいことがある。皆さんは、基本ができていない(それは指導する私の責任かもしれないが)。基本を体得するには、基本稽古が重要だと認識し、その稽古をゆるがせにしないことである。私は、組手競技に集中していた若い頃、基本稽古を組手稽古に必要だと認識して、熱心に行っていた。それは、私が自分の突き蹴りが未熟だと認識していたからでもある。おそらく多くの空手流派の稽古生は、基本稽古をあまり行わないだろう。また、仮想組手(シャドー)やビックミット、そして組手稽古が空手の稽古だと考えているのだろう。しかし、組手試合に勝つための手数を増やす稽古は基本稽古ではない。

 

 拙い例えで伝えることを試みるが、私の空手道は書道の習練と同じである。私は、書道の習練に、まず大事なのは、文字の理解は当然として、筆の理解と操作法の体得だと思う(墨や紙の理解も必要かもしれない)。それができてから筆と書と書き手のイメージ(心)の一体化、そして、その表現の卓越性が問われてくるのだと思う。空手に置き換えれば、基本の動作をより正確に行えること。それが文字の理解と墨と筆の操作である。漢字が間違えたら、それで終わりである。また、筆の操作は、自分の体を理解し、それを自由に使えるようになることである。 そのことを考えながら、空手の基本稽古を行っていますか?聞きたい。これまで47年近く空手道の稽古をしてきた。そして空手を稽古する者を見てきた。もちろん、ほんのわずかであろうが…。ここでいう基本とは、回し蹴りのみならず、あらゆる蹴り技、そして突き技、多様な技の稽古を通じ、技を作る際の体の使い方を掘り下げているのかということである。私の武道メソッドは、型だけ、試合だけ、というものではない。口幅ったいが、「武道修練においては、試合(組手)があるからこそ型がある」。また、「試合(組手)と型の稽古によって最高の自己と技を創出し、かつそれを表現したいなら、基本を忘れるな」と言いたい。

 【新たな始まり〜60歳からの空手武道が面白い】

  かくいう私も、未だに未熟な技しか使えない。また未熟な試合しかできない。だからこそ、「初心、忘るべからず」、今の自分を明確に理解し、新たな始まりにしたい。また、私が未熟な理由は、身体的な能力不足と、充分な身体の理解不足だろう。私は、その不足分を、必死に補おうとしている。私もあと数年で還暦である。身体の具合は、皆が想像する以上に良くない。「時すでに遅し」と言われるかもしれない。だが、歳をとり体が衰えた今だからこそ、身体的な能力不足、理解不足のみならず「技」に対する理解不足をより深く自覚できると考えている。そして、60歳からの空手武道が面白いと考えている。また、そのようなテーマで武道を極めたいと考えている。とはいうものの、あと10年もないかもしれないが。

【パラリンピックに注目】

 昨今、テレビでスポーツ番組が多い。東京オリンピックが1年後に近づいてきているからだろう。オリンピックを想定して、スポーツを盛り上げるのは良いことだ。私もスポーツを推奨する人間として、様々なことを学んでいる。私は、各種スポーツを注目しながら、若い人の頑張りが眩しく、頼もしく感じている。オリンピック競技ではないが、ラグビーや高校野球も良い。私もそうだったと思うが、若い人が目標に向かって頑張っている姿は心惹かれるものがある。また、パラリンピックに注目している。なぜなら、パラリンピアンの考え方に、健常者が学ぶべき点があると感じたからである。そして、パラリンピックに対する雑感を前に書いた時とは異なる視点が生まれている。今回、研究生に伝えたいと思うので書いておきたい。

 

 パラリンピアンの価値は、無いものにこだわらず、あるものの機能を最大限に発揮し、競技を行い、自己を表現するということだと思っている。その姿が健常者にも新たな地平を感じさせるのだ。もう少し具体的に言えば、パラリンピアンは健常者の機能と比較して、明らかに不自由と思われる身体を開拓している。それは、健常者には不自由と思われる、身体機能を受け入れ、その不自由な部分を補う機能を開拓しているということだ。換言すれば、「不自由」な境地から「自由」の境地に至っている。

【本当の自由を得ること】

 実は、今年のお盆休み、金沢から東京へ戻る途中の車中、鈴木大拙の講演を何度も聞いていた。鈴木大拙とは、禅と東洋哲学を世界に英語で広めた世界的な学者である。また、鈴木大拙の友人である西田幾多郎は、禅を基盤にした哲学を世界に発信した、日本を代表する哲学者である。2人は石川県が育んだ偉人であり、私の思想に多大な影響を与えた先達の一人である。鈴木大拙氏は講演で、「真の自由とは不自由が自由である」「自然というのはおのずからしかる」というようなことを述べていた。 そんな中、私はNHKのパラリンピックの番組を見ていた時のことを思い出していた。その番組で片足のない自転車競技者のアニメのワンシーンに感銘を受けた。そのシーンは、片足のない選手と健常者の自転車競技者とが一緒に自転車に乗っていた時の会話のシーンである。「片足で自転車を漕ぐなんて考えられない」と健常者が言葉を発したのに対し、「僕は生まれたときから片足がないんだ。だから片足がないことが自然なんだ…」。私は「自然」という言葉にピンときた。 そうだ、自然ということが大切なんだと思う。「俺が俺がと我を張るが我とはどこにあるんだ」と鈴木大拙先生が語っていた。そして「おのずからしかる」ということの奥にあるものを掴む、ということが、本当の自由を得ることだと言っていた。そして、「我にとらわれずに、自ずからと一体になった時」それが本当の自己を知ることであると、私は理解している。つまり、私の武道哲学は、自己の心身を介し、他者の心身と対峙する。そのことを通じて、真の心、そして真の身体を理解すること。それはパラリンピアンの体験の中にある、自由の実感、そして自己の解放に、武道哲学の究極の境地があると思うのだ。私の身体は、まだ強い面もある。しかしながら、ある面はかなりの不具合がある。それは、若い頃から目指している高い境地の動きのイメージの実現を前提とした場合ではあるが。そのように言っても、理解できないかもしれない。つまり、私のイメージは通常の人よりはるか高い境地にあった。しかし、そのイメージを実現できなくなってしまっているのだ。それは身体の傷病のみならず、私が心身の修練を怠っていたからだと思っている。

 言い訳になるが、武術家という芸能者として、横道にそれた生き方をしてしまったが故だと思う。あえて言えば、横道にそれたなら、そのままいけばよかったかもしれない。しかし、その横道に、私は納得できず、また求道的生き方に戻りたいと思っている。だが、若い頃と異なり、多少の社会的な責任もある。また、残りの人生もわずかになってきている。だからこそ、後悔のないよう、もう一度自分の心身に挑戦し、それを開拓したい。同時に私の思想を理解できる若い人や老人と共に空手の可能性をもっと高めたいと考えている。

  最後に、私の人生最期の目標は道を極めることだと言っておきたい。その結果、私がみんなの肥やしになれば良い。心は決まった。だが、現実は厳しい。その現実に負けないように、なるべく妥協しないように、頑張りたい。

 

写真下:研究科生と共に

▶︎デジタル空手武道通信 第33号


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