【バガボンド】
最近、友人から井上雄彦の「バガボンド」を見るように勧められた。私は読書が好きで8千冊以上の蔵書があり、いろいろなことを知るのが好きだ。にもかかわらず、漫画やテレビはあまり見ない。特に漫画は高校生の中頃から、あまり読まなくなった。空手の練習で時間がなかったからだ。でも、子供の頃は好きだった。中でも手塚治虫や石ノ森章太郎、そして赤塚不二夫が好きだったかな。最近は映画が好きだ。気分転換になるから。
そんな私でも、何人かの漫画家の作品は大人になってから読んだものだ。そのほとんどが友人の勧めである。しかし漫画はハマると、何時間も要することになってしまう。なぜなら、私は少しづつ読み続けるということが好きではないからだ。面白いと思うと、一気に知りたい。ゆえに気にいると、まとめて読みたくなってしまう。だが最近は、そんな心の余裕もない。
最近、私が空手界の低レベルを嘆くと、「バガボンド」の30巻以降でいいから見ろ、と友人に言われた。「とにかく見せ方がすごいから」「絵が最初の頃と、ガラッと変わったから…」と。その友人は、時々、映画やアニメを勧めてくれる。彼は井上雄彦のバガボンドの画力が凄いという。また、レイアウトが勉強になるからと言う。さらに、増田の発想を人に伝えようと思っても、見せ方が良くなければ人はついていかない、といつも説教をする。
そういえば、彼の勧めで井上雄彦の「スラムダンク」を正月に一気に読んだことがある。随分と前のことだが。スラムダンクは、とても面白く、引き込まれ、いろんなことを気付かされた。その後すぐに、井上雄彦の「バガボンド」を購入した。井上雄彦の漫画を読みたいと思ったからだ。しかし、絵を見ただけで、読むのをやめてしまった。
「バガボンド」に関しては、井上雄彦ファンからみれば、「今更?」と言われるであろう。バガボンドの感想を言えば、何かが見えた。否、感じた。読む必要がないぐらいに。ゆえに、30巻から7巻を2時間ぐらいで読んでしまった。
数日後、そのことを友人に話した。私は「バガボンド」は黒沢明の作品のようだと思った。つまり、絵が映画のスチールのように感じたのである。黒澤作品も映画だが、映画のスチール写真が素晴らしい。否、優れた写真の連続が黒澤作品だとも思う。
私は、残念ながら絵を描かない。しかし写真の勉強をした。そして詩歌を愛する。僭越ながら、井上雄彦のバガボンドは、絵が写真のようであり、セリフが詩歌のようであった。言うまでもないが、アニメや映画、動く絵が動かない絵よりも良いとは限らない。むしろ、動かない絵の方が、より多くの情報を封じ込め、かつそれを喚起することが可能だ。
優れた写真はそのようなものである。私は井上雄彦氏のバガボンドにそのような感想を持った。バガボンドのひとコマひとコマが完成した作品であった。
友人が言う通り、それはバガボンドの初めよりも最近の作品にその傾向が顕著だと思った。素人の私でもわかる。とにかく、私はバガボンドのファンになった。稚拙な言い方だが、まるで井上雄彦氏に武蔵が乗り移っているかのようだ。
【武蔵のように生きろ】
実はバガボンドを第1巻から読み直している。そして、友人からのメッセージは井上雄彦からレイアウトを学べということではないと思った。「増田章は武蔵のように生きろ」というように受け取った。正確には井上雄彦のようにと言った方が良いかもしれない。それがバガモンドを見ての感想である。しかし、世界に誇る大作家である井上雄彦氏と貧乏空手家と一緒に考えることは馬鹿げている。同時に、増田はすでに、武蔵のように生きているとも思う。おそらく、友人の伝えたかったことは、もっと徹底し、かつ考えろ、ということだと思う。随分と厳しい要求である。しかし、極真空手家、増田章の生き方をもっともよく知る友人だからこそ、そう思うのであろう。
同時に「お前はいつも迷いすぎている」との声が聞こえた。大山倍達先生が亡くなってからの増田章の20数年間は無駄だったかもしれない、と息苦しくなってくる。そんな声を「我事において後悔せず」武蔵の言葉を思い出し、打ち消す。そして、今からでも遅くはない…と。
バガボンドの第3巻のカバー裏に以下のように書いてあった。『読んで得する漫画は」人気があるようだ。…省略。ここで言っておかなければなるまい。この漫画は「得」はしません。ただの娯楽です』
まるで黒沢映画と同じではないか。私は井上雄彦氏が言いたい「娯楽」とは、暇つぶしではない、と思っている。そして、その意味は「感動」だと思っている。そして、その感動がエデュケーション(教育)となるのだと思う。つまり、感動が見る側の何かを引き出してくれるのだ。また、その感動こそが本当の教育に必要な現象なのだと思う。時に私は、人間教育などという言葉を使うことが、本当に恥ずかしくなる。それよりも、感動により一瞬にしてその人の感性を変えてしまうこと。そのような体験を与えること、それが優れた教育だ、と私は思う。しかし、お前にそれができるのか、と問われれば、答えに窮する。
しかしながら、私が体験した、極真空手における、世界の強豪たちとの試合、極真会館の世界大会への参加、そして世界の強豪たちとの交流。その体験こそ、真の人間教育だったと思っている。その体験が私の感性の核を変えてしまった。しかし、それは極真空手が内包する「悲しみ」を知ることでもあった。井上武彦氏のバガボンドには、そのような悲しみを昇華するだけの光があった。その光が照らす先は、自分を生きる、と言うことだ。あえて難しい言い方をすれば、「自己超越」と言っても良い。私の師である、大山倍達先生も若い頃、武蔵のように生きたいと思ったらしい。繰り返すが、今からでも遅くない。武蔵のように生きたい…。
【自己超越】
30年程前、私は一人2分、100人を相手にほとんど休みなく、3時間22分戦い続けるという修行を行った。100人組手である。その直後、急性腎不全で1ヶ月以上の入院生活を送った。私は1ヶ月の間ベッドの上で過ごした。私が夢に描いた世界チャンピオンになるための最後のチャンスだと思った大会の5ヶ月ほど前のことである。
その時、空手の修行で腎不全になった変人を一目見ようと思ったのか、大学病院の内科教授をはじめ、多くの医師が病室を訪れた。その中の一人の青年医師がいた。その先生が私に言ったことを思い出した。
「増田さん、空手をやっているらしいが、自分に追い越されていかないように頑張ってね」「その意味わかるよね」と言うようなことを言われたように思う。私は「そうですね」とわかったように答えたが、その医師が何を言っているのか、よくわからなかった。その時のことを、「バガボンド」を見て思い出した。その医師は私より10歳ぐらい年上だったと思う。
【自分を乗り越えろ】
「自分を乗り越えろ」
私がバガボンドを観て感じたこと。その意味は、30年前に日医大の内科の先生が、私に投げかけた言葉の意味と同じだ、と思った。30年の歳月を経て、理解できたように思った。
増田流に翻訳すれば、人間とは他者との関わり合いによって、浮かんでは消える、また絶えず遠ざかっていくような自分(自我)を観ている。それが存在ということだ。しかし、自分を生きるとは、その遠ざかって行く自分(自我とそのイメージ)を掴むことではないだろうか。その掴むということが、自分を乗り越えるということである。つまり人間には、自分という自我を乗り越えるような生き方をした時、絶えず遠ざかるような自我と本当の自分(自己)が重なり一致する瞬間がある。その一致する瞬間が自己存在、そして「生きる」ということを実感する瞬間だ。そして、それが本当の自分を掴む瞬間なのだ。その自分には形も文字も音も色も何もない。他者も自分もない境地、その境地に立ったとき、はじめて本当の自分がわかる。
話は変わるが、日頃世話になっている若き女性治療師(トレーナー)に「バガボンド」の話をしたら、「リアル」もおすすめですよ、と言われた。そのトレーナーは体育大学でバスケットボールをやっていた、優秀な方だ。彼女は私の娘ほどの歳だから、とても可愛らしい。
私は「わかりました」と答えながら、「私には井上雄彦氏の目指している境地が見える」というようなことを言ったら、「それを言いたかったんですか(本当に調子に乗って)」という感じで叱られた。おそらく、このおじさんは、なんでこんなに自信たっぷりなんだろうと、思っているだろう。この先も、老いぼれの増田は、変なオヤジと笑われて生きて行くに違いない。しかし、それで良いのだ。中途半端に理解などしなくて良い。素のままの私を受け入れてくれる人が、私の本当の理解者だと思っている。これまでもそうだった。これからもそうだと思う。
追記
井上雄彦氏は、宮本武蔵の書画が国宝だということを知っていると思う。私も武蔵の鵜図や自画像、枯木鳴鵙図、戦気の書を知っている。その武蔵の世界観を伝えるのに映画やアニメや小説より、井上雄彦氏の作品の方が優れていると思うぐらい、バガボンドは良いな。