武道への道〜(FromAkiraMasuda /デジタル空手武道通信コラムより)
【真の武道への道】
真の武道への道、そして上達とは、皮相的な技を習得(おぼえた)したということではなく、技の構造の認識レベル、かつ術の体得レベルの到達度で判断することです。言い換えれば、技術の深奥を尋ね、その理法を全身で理解していくことです。
さて、我々の流派の初段、空手道の黒帯は、修練基本項目を一定レベルで習得した者です。もちろん、初段の技術レベルは、決して高いものではありません。しかし技術の習得レベルよりも大切なことがあります。それは、理念をしっかりと心身に刻印し、さらなる修練を志すことです。残念ながら、決して現実は必ずしもそうではないかもしれません。しかし、私は黒帯がそうでなければ、自らの価値を自らが貶めるがごとしだと考えてきました。また黒帯とは、その門下のリーダーとしての意識を持ち、互いに協力しあって、仲間を手助けし、かつ自らを高めていかなければならないと、私は考えています。ゆえに私は、黒帯として、自らの未熟を自覚し、たゆまぬ精進を続け、「浅から深へ」と、認識レベルを上げたいと思っています。
ここで言う認識レベルの向上とは、決して単に空手技が強いということではありません。自己の心身の最善活用を成す、その方法を体得することです。
【私にとっての空手と空手道は】
ここで、これまでの私にとっての空手と空手道を振り返れば、時に厳しく、また苦しいものだったように思います。しかし、同時に楽しいものだったようにも思います。そして現在、私にとっての空手と空手道は、さらに厳しく、苦しいものになりつつあります。
そこで空手を山に、空手道を山登りに例えて見ます。すると、現在の私にとっての空手と空手道は、天候が崩れた、酸素の薄い、高い山で、次の行動をどうするかの判断と決断を逡巡しているような状況だと思えてきます。「山を降りるか?」「そこでとどまるか?」「それとも登り続けるか?」…。それは、空手を生業とするがゆえに生じる逡巡、要請される判断と決断かもしれません。私もすでに50歳台後半です。先輩には生意気だと叱られると思いますが、長く生きていると、全ては人間的な修業と思えてきます。また、それが斃れるまで続くことが理解できます。
これまでの私が望んだことは、高い山に登ることでした。しかし、私の前には登るに困難な山はありましたが、高い山はなかったように思います。ここ数十年の私は、とても高い山に登ろうとしていました。しかし、その山は私の頭の中だけにある山かもしれないと、思い始めています。つまり、私の見ていた山は妄想であったと、いうことです。また、私にはその山を登る資格がないのかもしれないと思っています。それほど登り続けるには困難な状況です。その大変さは、高い山に登っている人間にしかわからないでしょう。
今、そこに踏み止まりながら、状況を判断し、次の行動を決断しなければならないと、私は考えています。時間はそんなにありません。ただ、私に見える高い山は決して妄想ではなく、今そこにある現実だと思っています。だからこそ、一旦撤退してでも、準備をし直し、私が見ている高い山の頂(いただき)に立ちたいと考えています。そして、いつか頂(いただき)に立つことができたならば、そのプロセスを皆に丁寧に語りたいと思います。また、高い山に登ることのみならず、美しい山に登ることが大切だと言うことを伝えたいと思います。さらに山の高さよりも、美しい山を愛し、それを大切にすることが大切ではないか、と語りたいと思います。そして最期に、美しい山を愛する、より多くの仲間がそばにいてくれたら、とても幸せな人生にちがいないと考えています。
2018-3-3:一部修正