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Channel: 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
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フリースタイル空手の課題と武道人の哲学

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昨年、開催された、第1回フリースタイル空手チャンピオンシップス東京オープンの反省をしたい。

先ずは、選手の戦い方の評論に先立ち、フリースタイル空手ルールを始め大会運営等、仕組みに関しての不具合を報告する。
第1回の大会は、私の能力不足と準備期間の短さから、運営上の問題がいくつかあった。問題は、致命的な問題ではなく、あくまで人材の不足によるものだ。それでも、多くの人が私を支え、助けくれた。

また、人材の不足は、何が何でもフリースタイル空手を形にするという、少々強引な私の行動パターンによるものだ。私は、「もう少し、時間をかければ良いのに・・・」という声を無視した(実は理由がある)。

いつも私は、時間がないと考える。勿論、良いものができ上がるためには、時間がかかるのは経験上、分かっている。しかし、早く結果を出さなければ、法螺吹きと言われるとの脅迫観念があるのだろう。私は、子供のときから、目標を口にし、そうやって、自分を鼓舞する性格だった。それなりの結果は出したように思うが、あまりに高い目標と理想を掲げるので、途中で投げ出すこともあった。私の父は、そんな私を叱った。「分際をわきまえろ」と。

そんな私の性癖は、回りを振り回すのみならず、私自身を苦しめた。人間は、いつも行動の決断を迫られている。しかし、人間の行動や思考は、矛盾することが多い。「進むこと」「退くこと」「止まること」等、行動の判断・決断は簡単ではない。


私はこれまで、①「行動による結果がある程度、予測されていること(実現可能性)」②「やることによるリスクとやらないことによるリスクの両方が予測できること(リスクヘッジ)」③「自分がやりたいかどうか(好きなことか)」などを判断基準にしてきた。最近は、それに加え、その行動には「私心がないか」「動機が善いことか」を問いかける。京セラ名誉会長の稲盛和夫氏の教えだ。私は12年間程、稲盛氏が塾長を努める塾で学んだ。稲盛氏は私の先生である。

今回は、①と②に関しては、ほとんど無視に近かった。頼みにしたのは、③と稲盛氏の教えだ。

何度も繰り返すが、フリースタイル空手プロジェクトは、人と社会に役立つ武道を創出することを目的としている。それには、世界中で多くの人が愛好する空手を進化させなければならない。そんな思いが込められたプロジェクトなのだ。

フリースタイル空手の目標は、空手界や格闘技界をより善く変えることだ。それは、新しい武道スポーツの創出によって、日本と世界、人と人、心と心を繋ぎ、良心を結ぶということでもある。

私の仕事は、空手道場の経営だ。私にとって、空手道場の経営とは、より善い修練場の創出と経営、そして武道哲学の布教活動だと考えてきた(今後は、若干見直すつもりだ)。

その武道哲学は、決して難解なものではない。それは、「自分を信じること」と、自己の体験を吟味、反省し、「より善い自分を創っていくこと」に収斂されていく。

さらに武道人とは、他者の考えで行動するのではなく、自分自身の身体(他者との交流体験を通じた世界像)で考え、行動するものだと私は考えている。それゆえ、自分の身体(他者との交流体験を通じた世界像)を切り拓かなければならないのだ。

言い換えれば、武道人とは、体験により自他と向き合い、それを切り拓くことで、真の身体を創り続ける者だと言ってもよいだろう。



さて、前置きが長くなったが、大会の反省点、課題を箇条書きしたい。


(1)反省点
選手の帯びの長さが長過ぎる。
選手の礼法が統一されていない。
選手の道衣が破れている。
ゼッケンが破れている選手がいた。
得点ボードの変更。
審判が試合を中断し過ぎた。
審判が背後取りを判断できなかった。
審判動作等の修整。
審判が攻撃支配が取れなかった。
etc
(2)見直す点
表彰式は、丁寧にやるべきだったかもしれない。
ルール説明が必要かもしれない。
決まり技のアナウンスをした方が良いかもしれない。
クラスを少なくした方が良いかもしれない。
道衣の検討(破れない道衣やカラー道衣の導入)。
etc
(3)良かった点
多様な選手が出場した。
副審が機能した。
掴みの重要性が分かった。
タックルが使われた。
蹴り技が良くでた。

(4)良くなかった点
選手の打撃力がない。
掴みに対応できない選手が多かった。
首取りができない選手が多かった。
選手が打撃技と組み技の連携が上手くできていない。
etc

(1) に関して、今回、私が後悔している最大の点は、選手の帯の長さが長過ぎたことだ。運営サイドの不手際ではあるが、選手サイドももう少し道衣(着衣)に関して、意識を高く持って欲しかった。

「そんな、細かいことを」と言われるかもしれないが、そうではない。
私は、大会を演劇の舞台だと考えてきた。つまり、選手と審判は役者であり、大会は舞台なのだ。また、その舞台を盛り上げるのは、観客かもしれない。

選手の道衣(帯びも含めて)は、大事な役者の衣装だ。それが破れていたり、汚かったりすれば、舞台は台無しである(汚くなることが必然ならそれも良いかもしれないが・・・空手はそうではない)。

今後は、道衣に関しては、厳しくチェックしたい。断っておくが、フリースタイル空手は、流派やスポンサーの宣伝を道衣に施すことを、多少なら認めたいと考えている。しかし、格好が悪ければ、流派の宣伝にもならないだろう。
要するに、フリースタイル空手の運営サイドにとっても、格好良い選手が出場し、活躍することは、望むところなのだ。この辺は、もっと丁寧に書かなければならないところかもしれないが、選手には考えていただきたい。

私は、選手が勇敢で雄々しいのみならず、なるべく凛々しく、戦う姿を記録したい。そのような姿を観客の心に止めたいのだ。それが、心と心を繋ぐことになる。

今後、運営マニュアルの修整のみならず、ルールブックには、あらゆることを明記する。そして、大会を役者である選手、審判と観客のための場にしたい。


(2) に関しては、検討中である。
(3)(4)に関しては、ルールの周知と教本づくりが重要だろう。また、練習試合を増やしたい。フリースタイル空手は組み技でポイントが取れるので、従来のフルコンタクト空手競技よりもダメージが残らない(身体的のみならず精神的にも)。
ゆえに、試合数を多くできるはずだ。

また、試合内容や選手の戦い方については、次回に書き留めたい。





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