自由と優しさのある社会 〜衆議院選挙を見て思う
【小学校時代の女子転校生のこと】
月二回の空手武道通信の更新のために気合いを入れたが、冷静になると不安が生じる。横になると痛みは和らぐが、起きると腰の痛み、脚の痺れが出てくる。
今回のヘルニアは、L3〜L4椎骨間のヘルニアの逸脱なので、腿から膝にかけて痺れと、麻痺に近い症状がある。軽度だとは思うが、1日に1回は、脚が踏ん張れずに転ぶ。とにかく横になって、資料の読み込みをしようと切り替えるが、不安感は否めない。
そんな中、ふと思い出すのは、小学校時代の女子転校生のことだ。私は小学校6年生の時、松葉杖をついた彼女の姿を覚えている。とても可愛らしい子だった。私は小児麻痺か何かで脚が悪いのだろうと、当時思っていた。優しくしたいなと思っていたが、恥ずかしくてできなかった。
その後、交通事故や膝の手術などで松葉杖を使うたびに、彼女のことを思い出した。幼い恋心の話ではない。脚が不自由だということは、とても不幸だとは思わないが、大変なことだなと思っている。もしかすると、彼女は自分の脚が不自由だとは考えていなかったかもしれない。なぜなら、幼い頃からそのような状態ならば、それが当たり前である。また、そのような状態を受け入れ、前向きに生きていたとしら、それは自由なあり方であったろう。
それを不自由だと決めつけるのは、間違った定義、そして雑音のような気がする。しかし、そのような状況の人間が様々な可能性に挑んで行けるような自由度が社会になければ、それは不自由な状況と言わざるを得ない。
考えを整理すると、私が考える自由は、自分自身が行動を選択し、人生を開拓する自由だが、同時に、より先進的な社会は、多様な人間の様々な可能性を包摂し、その自由度を保証する社会だと、私は考えている。そして、前者が本当の自由であるが、多様な人間が共に育み、制度、ルールとして不自由を廃し、多様な自由を後押ししていくことも必要なことだと考えている。また、それは一人ひとりの自由を自覚させ、人間が社会を形成し生きていくために必要な優しさであると考えている。私はそんな自由と優しさのある社会を望みたい。
【ボクシングで勝つものは】
そんなことを思いながら身体を横たえ、テレビでボクシングの村田諒太氏の応援をしていた。そして、圧倒的な安定感で彼が相手チャンピオンをTKOで下し、ミドル級の新世界チャンピオンになった。驚いたのは、勝った後の彼の一言が、どこかで聞いたような言葉ばかりだったことだ。
村田氏は勝者インタビューでこう述べた。「ボクシングで勝つものは、相手を踏みにじり、勝者になるのだから、それなりの責任がある…」。こんなことをボクシングの試合の後、言う必要があるのかというのが、率直な感想であった。おそらく、そんなコメントをスポーツの試合で聞いたことがなかったからだろう。テレビでは彼にボクシング指導をした先生の教えのようだ。しかし、それをあの場面でいうということは、彼自身の魂の中に、その哲学が刻印されているからだと思う。実は、私も同じことを遠い昔に思ったことがある。それを、拙著「増田章 吾 武人として生きる」に記した。実は現実の勝者たちがそうでないのを目の当たりにして、それを書いたのである。
その後、テレビでは衆議院選の結果が発表になっていた。その日、台風と腰痛の中、杖を着いて投票所に向かった。正直、気が重かった。
【最近の政界とその論評には】
なぜなら、最近の政界とその論評には、枝葉末節的な論議が多く、政治とメディアに愛想をつかしていた。それでも、朝日新聞を定期購読する私は、基本的に新聞が好きである。できれば全紙読みたい。時々、新聞で面白い記事を目にし、感銘を受ける。
ただ今回の朝日は、中立を謳いながら、安倍批判がひどかった。私は中立と言う考えに疑義を持っている。ゆえに、朝日は中立を謳うのではなく、徹底的に安倍批判を展開するのなら、それも良いと思っている。正直、偏向的と感じる記事が多々あるが、今後も政権批判をしたいのなら、信念を持って批判すれば良いと思っている。そして批判に対し、安倍首相は時に丁寧に答えるべきだ。ただ必要ないと判断すれば、淡々と政務を執行すれば良いと思う。
かくいう私には、安倍首相の仕事ぶりは、ここ20年間の政界を見て、誰よりもまともに仕事をしているように見える。ゆえに私は安倍首相を支持している。
繰り返すが、私が感じるのは、メディアも含め、問題提起の仕方が皮相的すぎることだ。そして、最も重要な政治の問題は、政治家と我が国のリーダーの資質の問題であると考えている。
中には良いと思える人もいるが、本当に政治のリーダーにふさわしい人が、政界に育っているようには見えない。
【政治家やリーダーは木】
私は、政治家やリーダーは木、政策はその果実、メデイアを含めた国民の意識は、自然環境。社会制度、システムは土壌に例えられると考えている。
私の脳裏には「木を育てるには自然環境と土壌が大切である」そのような思いが浮かんだ。あと水も必要だが…。この水にあたるのは、抽象的すぎる概念だが「愛」「仁」「良心」でろうと私は考えている。
ところで、今回久しぶりに政治について書いているのには理由がある。足が痺れる中、友人が心配して電話をくれた。実は、その彼も身体の調子が悪いという。そして精密検査を明日に控えているという。
毒舌の私は「〇〇ちゃんが僕よりも大変そうなので元気が出たよ」「ありがとう」と言った。
その友人は私の性格をよく知っているので、「それは良かった」と電話口で笑っていた。さらに私は一言多く、「結局は自分の人生をどう納得するかだ」「納得できない場合もあるかもしれないが」「どんなことでも良い、自分の納得できることを探して生きるかしかない」と、いつものように上から言った。いつものことだが、そのような言葉は、自分に言い聞かせている言葉なのだ。
つまり、村田氏の言葉や友人の声を聞いたら、何か心の奥底から出てくる思いを認めたかったのだ。そして体調不良の中、政治について書いてみる気になった。
【良い政治家を誕生させるために必要なことは】
さて話を戻したい。良い政治家を誕生させるために必要なことは何か。極論すれば、駄目な木は引っこ抜き、土壌改良をしなければならないということだ。
次に自然環境である。ここでいう自然環境は、先述したように有識者と言われる知的権力者を含むメディアと国民の意識である。我が国の伝統として、自然に対して「仕方ない」という意識が強すぎるように思う。 要するに、自然環境に対し、積極的に立ち向かうという欧米的な考え方、思想はあまり根付かなかった。ゆえに大きく抜本的な改革は好まないようだ。明治から昭和初期のエリートの言動にそのような志向性をみるが、その野望は挫折した。
その挫折も相まって、伝統的に自然を生かすという方法を考える方に傾きやすい。と言えば、よく言い過ぎのようにも思う。平たく言えば、目先の安定を求める傾向が強いのだ。そのような面は、ある種良い面とも思えるかもしれない。
しかしながら、世界的な潮流を読み、戦略を考えること。また、大胆な土壌改革、つまり抜本的なシステムの変革に関して及び腰となる。言い換えれば、国民の意識改革が困難なのは、我が国がいかに自然環境に恵まれ、かつそれを上手に生かしてきた、良い国であるとの証明でもある。ここでは、それに関してこれ以上言及しない。しかし、私がメディアや有識者に対して考えてほしいのは、皮相的な施策の是非を国民に流布しないでほしいということである。
もっと、最先端の人類の叡智を紹介してほしい。
また私がいうとレベルが落ちるかもしれないが、例えば、教育に関する政策について思うことがある。
【農業に例えてみる】
それは教育を人と技術という作物を育む農業に例えてみることだ。そう考えてみると、もし国内的にも世界的にも必要とされるような作物と品種(人材と技術)の創出を行いたいならば、品種の改良と土壌改良が必要だと思えてくるはずだ。また、物流手段や農業に従事する人材を多方面から集められるよう、柔軟性を有するシステムへの転換も必要であろう。つまり、教育も農業のように、どのような作物、そして品種を作るか、またそれをどのように社会に活かしていくかということだ。同時にそのようなシステムをデザインし構築することが必要だと思えてくるはずである。補足すれば、どのよう人材を育てていくのかという意識が人材育成、教育では重要だと言うことである。さらに言えば、今日は自国の価値観だけを重んじるリーダーは通用しまい。他国の価値観も包摂するような価値観を提示できるリーダーでなければならないと思う。
私はそのようなことを前提とした政策を考えた上で、資金面の援助を実施したら良いと思う。現在の政策案はあまりにも対処療法的すぎる感がある。
ゆえに、極論すれば、教育政策は、小中学高校、大学を含めた学校改革に行き着くと思っている。しかし、そこには既得権益者の厚い壁が立ちはだかっていると思う。
誤解を恐れずに言えば、幼児教育の無償化は、少子化対策であり、教育政策とは本質的には異なる。また政府が行う奨学金の充実は高等教育政策の理想形ではない。簡単ではないだろうが、もっと教育界に自由度を与えるべきだと思う。正直言って、子を持つ親としては大変ありがたいが、それでは将来的に破綻が見えている。
要するに私の意見は、教育支援は、社会保障の一環としての資金援助と教育政策とを分けて考えるべきだと考えているということだ。そして後者が優先すると考えている。つまり教育方法の多様化、柔軟化を実現して欲しいのだ。さらに言えば、教育機関の多様化と同時に横の連携を形作ることである。それが将来の各界のリーダーを育成する土壌となると考える。
ここでは教育政策を例えに用いたが、一番重要なのは、政治家を輩出する選挙制度の問題である。端的に言って、小選挙区比例代表並立制はよくないと考えている。ある政治家が二大政党制を実現するにはこの制度しかないと提言し、皆がそれに乗った。そもそも、「二大政党制とは何か?」しつかりとイメージできていない。
【小選挙区制は】
私は、小選挙区比例代表並立制は、二大政党制が目的化し、中身が問われていないと考えている。また党の中央集権的な権力を強化する等、理論的にも小選挙区制に対する批判に与する立場だが、そんなことより危惧することがある。
稚拙な例えだと笑われるかもしれないが体感的に思うことだ。
それは、スポーツに例えることで理解してほしい。
まず小選挙区制は、まず「勝ち負けをはっきりさせる試合ルールを作りましょう」というだけの非常に曖昧なルール作りだったように感じる。しかし、試合ルールを設定する際、そのルールの結果、「どんな選手ができるのか」「どんな技術が発展、創出されるのか」「見る人は納得するのか」「試合する者が、結果を糧に自己の技量、能力を進化させられるのか」などなどを考慮しなければならないと思う。また、「日本人の身体的特性」「日本国民の感性」ということを考慮する必要があったのではないかと思うのである。さらに言えば、比例代表制は、ただ闇雲に「好きなチームを選べ」というようなイメージである。
これ以上は書かないが、先述したような試合ルールでは、良い選手は育たない。同時に良いチームも育たない。思考停止している愛好者は、ただ試合に勝ったものを賞賛したり、批判したりするだけだ。しかし、それでは「より良い技術を見て感動する」また「より選手を見て感動する」という斯界が発展する種子が育たないと、私は考えている。さらに、そのような選手を排出するチームを支援していくシステムを作ることで初めて、より良い業界・斯界が形成されると思う。
要するにルールは、先述したような理念やシステムを具現化するという目的のためには、変更して良いのだ。否、むしろ、本質的、大局的、長期的にみて必要ならば、変更し続けなければならないのだ。そうでなければ、より良い愛好者(有権者)と選手(候補者)を育み、そのスポーツ自体(民主政治)を発展させることはできないであろう。
政治とスポーツは異なるというかもしれないが、スポーツにも政治性が内在し、政治にもスポーツ性、ゲーム性が内在するということは、少し考えればわかることだ。
また私は「人間が3人以上集まれば、そこには政治が生まれる」と極真空手の選手時代に実感した。要するにスポーツも社会も人間が行う以上、政治機能が内在するのだ。つまり政治は社会的な人間にとって普遍的な事柄なのである。ゆえに、政治を特別なことと考える必要はないと思う。スポーツと同じように考えるべきだと言えば、お叱りを受けるだろうか。むしろスポーツ以下に政治を歪曲しているのは、悪しき有識者、権力者、そしてメデイアである。私は、そのような有識者、権力者、メディアばかりではないと信じたい。
私の意見は、また私の所属する空手界も含め、あらゆるスポーツ、そしてグローバルな環境変化に適応しなければならない業界に当てはまると思っている。そして、業界・斯界(社会)を益するリーダーを輩出するには、ルール並びにシステム作り(土壌作り)が重要だと、私は考えている。
【良い社会というのは】
最後に、好きな言葉、概念ではないが、社会の勝者と思われる人たちは、ボクシングの村田諒太選手が言うように、責任を感じてほしいと思う。そう言うと、「甘ったれたことを言うな、全て自己責任ではないか」と言う者がいるであろう。しかし、私が言いたいのは敗者の代弁ではない。また、そもそも社会に勝者と敗者などいないと断じたい。そして良い社会というのは、より多くの自由を認め、不自由を廃するような、優しく信頼できる良いリーダーが権力を有する社会である。一方、そうでない権力者がリーダーである社会は良くない社会だということだけである。