私は幼少の頃から、自分の人生について、悩んできた。頭脳明晰ではないにもかかわらず、である。そもそも頭脳明晰でないから悩むのか…。とにかく、周りから愚図に見えたに違いない。否、気狂いと思われていたかもしれない(すみません適当な言い換えができません)。
その悩みと苦しみは、私の性質にアスペルガー症候群の傾向があったからではないかと、考えている。詳しくは書かないが、幼少の頃、私には偏執狂的なところがあった。やがて、それは克服された(そう思っている)。
その悩みと苦しみから、私が逃れることができたのは、極真空手に人生を賭けてからである。そして、いつも疎外感があり、人生に怯えていた私が、極真空手の長やその組織の有力な人達と交わるようにまでになった。上手な言い方はできないが、私にとって、極真会とは「家」のようなものだった。時に私に厳しかったが、同時に私を守ってもくれた。ある日、その「家」が崩壊した。私の心中には、私にとって「家」のような極真会を取り戻したいという思いが、ずっとある。今回は長くは書かないが、人間が社会を形成し、その中で生きて行くには、「家」が必要だ(社会自体も「大きな家」のようなものかもしれない…)。家族、家庭と言い換えても良い。そこには、「家」が自分を育て、かつ守ってくれるという事実がある。また、自分が生きた証があると思うのだ。
さて、私は5月で55歳になった。そのぐらい生きていると、死というものがだんだん身近に思えてくる。まだ、死を恐れるような状態ではないが、私より若い人たちが亡くなるのを聞くと、次、私の番だとしてもおかしくない。
振り返れば、幼少の頃から思い続けていることが、私にはある。それは、「自分がどんな状態になったとしても、自分は自分だと、胸を張れるような自分でいたい」ということだ。そのために、「自分とは何か」と問い続けている。その問いかけの応えの一つが、「家」を大事にするということである。さらに、そのために何をするかと、絶えず問い続けている。それが、私の生き方だ。
話は変わるようだが、拙著「増田 章 吾、武人として生きる」に私の稚拙な詩を、数点載せている。その中に、「人生という試合場で」というタイトルのものがある。その詩は、「すべてのものがパートナーだと感じる日まで」と結んでいる。
実は、その詩を書く前、私は一冊の本を読んでいた。それは、ビクトール.E.フランクルの「生きる意味を求めて」という本だ。
私の空手の「応じ」という概念は、古今東西の哲人の思想と自分の経験、そして、フランクルの示唆する世界観の影響もあったと、改めて思う。以下に、その本からの抜粋を載せておきたい。
『人生は、日々私たちに問いを投げかけてくる。それゆえ、この記録はドラマチックである。私たちは、人生の方から問われているのであり、それに応えていかなければならない。言わば、「人生とは、生涯にわたる問いと答えとの繰り返し」である。そして、答えに関しては、生涯をかけて応えていくことだけが可能なのだ、と何度でも言っておこう。このように人生に対して「応えていく」ことこそ、自分の人生に対して「責任を持つ」ということなのである。
永遠の記録は失われることはない。これは慰めであり、希望である。しかし同時に、修正することもできない。これは戒めであり、暗示である。過去からは何も取り除くことができないからこそ、どのような可能性を選択し、過去に保存するかは、私たち自身にかかっているのである。「修正することができない」というのは、「私たちに課せられた、この責任の重さを思い出しなさい」という暗示なのである。』出典: Viktor.E.Frankl 生きる意味を求めて(春秋社/諸富祥彦:監訳)
最後に、吉田拓郎の楽曲に「人生を語らず」というものがある。初めて聞いた時、「人生を語らず」と言って、十分に人生を語っているじゃないかと、私は「ツッコミ」を入れていたが、好きな楽曲だ。
私も今、人生を語っているのではない。人生を生き切ることについて、思索を深めようとしているだけだ。どんな時でも自分とその人生を受け入れられるように…。55歳の誕生日、みんなの健康を祈りつつ。(以下の写真は、増田家の墓からの眺め)。
【蛇足】
蛇足ながら、拙著、『増田 章 吾、武人として生きる」というタイトルは、私の希望では、「魂への刻印」だった。その希望は、拙著の内容が稚拙かつ未熟な構成だったのだろう、却下された。しかし、私は、自分のことを武人だと認識したことは、一度もない。むしろ、自由を尊重する、リベラルな人間だと認識していた。ただ、そのような人間が、「武人的な生き方」として伝えたかったのは、武人の思想に内在する、普遍性である。また、その普遍性とは、リベラルな私が追求した、「個の自覚」と「自我の超越」と言っても良いような、志向性である。いずれ、その辺をまとめたい。残された時間がないかもしれないが。