オリンピックについて一言
小池新都知事のスタートダッシュは素晴らしい。
公約通り、都政の諸問題にスポットライトをあてている姿は、なんとも頼もしい。一方、諸問題の解決には至ってはいないことから、諸問題の処理を一つでも解決した時に、初めて評価を下したいとする人たちもいる。
ともあれ、私は小池新都知事の誕生には使命があると思っている。また、そのことをメディアを含め、我々市民(都民)がどのように受け止めていくかが重要だと思っている。その辺の考えは、時間がある時に整理してみたいと思うが、まずはオリンピックの問題について、少しだけ記しておきたい。
オリンピックの開催のための諸費用が数兆円にもなるという。
オリンピックの費用対効果については専門家ではないが、そもそも都民の税金を使い、開催するイベントである。都民にメリットがなければならないのは当然だと思っている。
また、私は東京オリンピックに賛同する立場であるが、税金を湯水のように使って良いとは思っていない。
【アスリートファースト】
勿論、イベントを行うには費用がかかる。また、オリンピックのようなイベントでは、かなりの費用がかかるに違いない。イベントを運営する、オリンピック組織委員会は、コンパクトシティを掲げて、東京オリンピックを招致したと言う。ゆえに現在問題になっている、準備費用は必要経費だと主張しているようだ。また、アスリートファーストを掲げ、より良い競技場の建設が必要だと主張する。
しかしながら、観客席を増やすことが、アスリートファーストのオリンピックに必要なことだろうか。私はアスリート達に必要なのは、選手達の強化費や全国のオリンピックアスリートを養成するための施設や競技団体改革の必要性だと思う。競技団体改革とは、ずいぶん不遜な意見だが、オリンピックアスリートを養成するのであれば、なんらかの形で国や自治体と連携することが必要だと言うのが、私の考えである。おそらく競技団体のリーダー達は、国や自治体に口出しをしないでほしいと言うだろう。それならば、各競技団体はオリンピックに勝る国際大会を独自で作るべきだと思う。私が言いたいのは、すべての団体が公共性を意識し、より開かれたものになることが、オリンピック憲章に沿う形だと考えている。
また、コンパクトシティーに関してだが、コンパクトシティという発想は、運営等の負担軽減が含意されている思う。
【持続可能性】
しかしながら、考えをまとめるにあたり、最も重要なコンセプトは、オリンピック自体の「持続可能性」だと思う。
先のリオもやっとの思いで、オリンピックを開催し、終了した。無事成功したと言われているが、収支や今後の経緯を見た上での検証が必要であろう。
最近、ローマがオリンピック招致の挙手を取り下げたと聞く。賢明な判断だと思う。乱暴な言い方をすれば、今のオリンピックを続けるとなれば、よほど資金のある国、自治体しか、オリンピックはできないと考えるのがまともな見方だ。また、「失敗の結果責任は皆で、成功した場合の評価は声をあげた者に」というような無責任なリーダーが主催するイベントということになるだろう。
勿論、オリンピックをやろうと言うリーダーが悪いといっているのではない。
オリンピックの意義や予想しうる問題点を、皆のこととして考えた上で、透明性をもって、市民に了承を得ること。また、予定や構造に瑕疵が見られれば、正直かつ迅速に改善できるような仕組みを作らないと、大変なことになる可能性が大だと言いたいのだ。
大げさに言うと、震災や経済恐慌など、起こっては欲しくはないことが、もし起こった場合を考えずにはいられない。先に述べた「持続可能性」というコンセプトは、なにもオリンピックだけのことに限らない。東京都という自治体、また日本という国家、さらに言えば、すべての国家運営(組織経営)の普遍的なテーマでもある。
【私の提案】
私の提案は、東京オリンピックは、国と東京都、東京という巨大な自治体と地方の弱小な自治体を結び連携する、新たなシステム構築の試金石とするべきだと考えている。また、大学の施設の公共性を高め、活用していくシステムの構築も有りだと思う。
少し脱線するが、スポーツも教育や文化政策の一環であるならば、スポーツ界と大学との連携の見直しも必要だと思う。異論は必至だと思うが、あえて拙論を提示したい。私は、今後の大学はより開かれたものになる必要があると思っている。つまり、若い一時期のためにあるのではなく、あらゆる年代や層の人たちのコミュニティーとなることが、大学という存在に消費される、国民の財(時間や金)を無駄にしない方向性だと思っている(それは学歴社会の見直しも含む)。
話を戻すが、オリンピックの持続可能性を考えた場合、まずは施設にお金をかけないことだ。それよりも、選手と観客の記憶をより普遍的なコンセプトで残すこと。また、より開かれた形でアーカイブできるように考えるべきだと思う。その点、ロンドンは十分に考えられていたと聞く。東京はどうだろうか?もしかすると、直前まで、東京になるとは信じてなくて、決まってから考えれば良いと思っていた?まさか、そんな行き当たりたりバッタリではないだろう。小池新都知事とメディアに願いしたいのは、本当の悪とは何かということを追求して欲しいということである。そして、悪が支配する世の中とならないようシステムの中に魂を入れて欲しい。勿論、答えは出ないかもしれないということも想定しながら。また、それがメディアであるという意見も排除しないで。
ただ「いつの時代も本当の悪は究明されない」というのが私の所感である。もしかすると、それが人間の知恵なのかもしれないが…。