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Channel: 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
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日誌6月7日

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日誌6月7日

脚が限界だ。手術をした脚がうっ血し膝が痛い。
これは膝の手術だけが原因ではないだろう。おそらく、2年前に手術をした静脈瘤の抜去手術の影響だと思う。下肢がしびれてくる。

そんな脚の状態にも関わらず、ここ数日の間、PCとにらめっこしていた。
計算してみると50時間以上の作業になる。大げさではなく、狂っている…。
いや、馬鹿者だ。

その内、25時間は無駄、失敗だったかもしれない。しかし、全て無駄ではない。また失敗をしたおかげで気づいたこともある。そう思わなければやってられない。

正直言えば、さらに失敗を重ねる可能性もある。今日は終了としよう。脚が限界だ。

今、全仏オープンのTVを流しながら、ブログを書いている。

実は、テニスには興味のなかった私だが、錦織の活躍で好きになった。
錦織は、あの細いからだでよく世界の強豪と戦っていると思う(僕は錦織ファンです。少しミーハーかな…)。


僭越ながら、錦織の類稀な技術の力であろう。その技術の土台は、持久力と対応力のように思う。対応力とは我が武道で言えば、「応じ」の力である。

応じの力を平たく言えば、相手の攻撃になるべく早く反応し、それを防御し反撃することだ。補足を加えれば、反撃は相手の予測を許さないことだ。

私は武術の攻防をチェスや将棋になぞらえるが、テニスはまさしくチェスや将棋だ。野球やサッカー、他のスポーツにもそのような要素がある。しかし、我が武道にその要素が見られないのはなぜだろうと思っている。ブラジリアン柔術などには、そのような要素があると思う。しかし、なぜ我が武道にはないのだろうか?

「スポーツにあって武道にない?」「それは武道だからだ」
私はそんな考えを論破したいが、それもバカバカしい。
「武術はルールがないから」「テニスや将棋は相手に直接接触しないから…」
何を言うか。ルールの本質がわかって言っているのか。そもそも、ルールがなかったら、何も考えられない。人間存在もないかもしれないのに…。

以前から私は、格闘技も武術も究極はコミュニケーションだと直感的に考えている。
その本質は、他者の力を吸収(利用)し、自己を創造していくことだと言っても良い。
だからこそ、他者の存在を尊重することが武術には必要なのだ。
その部分を社会的に応用していくと武道になる。

さて、早くその考えをまとめたいが、考証と書きおろしには、もう少し余裕が必要だ。

そして、我が武道の抜本的な改革が必要だ。おそらく、みんなからは疎んじられると思うが、どうしてもやらなければならない。このままでは自分が納得できないから…。

脚を休めるために、昼に近くの公園に行った。そこでおにぎりを食べた。
風が気持ち良かった。サッカーの試合があるせいで、本日は駐車場が有料だった。おかげで人が少ないのだろう。

新聞を広げて読んだ。30分でもそんな時間があるだけ良い。でも、ゆっくりと本を読む日が欲しいなあ…。

追記
人が大勢いるところは好きではないので、観戦はあまりしないが、私は野球やサッカーなど駆け引きがあるスポーツが好きだ。もちろん将棋も好きだ(できないが)。
また、テニスの全仏はすばらしい(おそらくウィンブルドンなども同じだと思う)。ファンの数のみならず、その質の高さや雰囲気の良さを感じる。空手の試合もそうあって欲しいが…。残念ながら、笑止、誇大妄想的な望みだろう。







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