「拓真道とは、自分のからだを考えることだ」
『ここでいう「からだ」とは、「自他を認識する基盤」「他者と交流する基盤」「自己を表現する基盤」を意味する』
今、断捨離を推進している。
その中、メモ書きを電子化している。捨てても良いのだが、未熟な思索を繰り広げていた昔が懐かしい。
正直言えば、段々、考える気力がなくなってきている。今のうちに、すべてを考え直さなければ、というような思い、危機感にも近い感覚で生きている。
「シンプルに生きろ」
そんな声が聞こえるような気がするが、そんな人間なら今、ブログなど書いてはいないだろう。
【自己とは何か?】
2013-2-18日のメモより
増田の世界像(世界観)を考えてみた。
自分とは一体、なんだろう?
自分と自己とは異なるのか?
からだとは何か?
私が考える自己とは、「鏡」のようなものである。
鏡のような自己の周りに、自己の肉体と他者の肉体との交流によって創り上げられた世界がある。
その周りに文化や道徳観念としての規範意識(価値観)が「壁」のように形成されている。
さらにその外側には、自我と他我の交流により生成される世界がある。
それが自分であり、それが強固になれば「精神」となる。
しかし、自分の奥底に横たわっているのは、外部、他者からの情報を鏡のように映し出す、鏡のような自己だ。
それは物質でもあり、働きでもある?言葉で正確に表すことができない。
つまり、物質といえば良いのか、働きといえば良いのか、それとも使い古された「存在」という言葉で表現すれば良いのか、今の私にはわからないということだ。
そして私の内側から声が聞こえる。
「壁を打ち破れ」「精神を解放しろ」と。
より善い生き方とは、「自己という鏡」を磨くような生き方のような気がする。
一部修正/これは、再検討を前提に思いついたことをメモ書きしたものである。
【追記/2014-12-9】
自己という鏡が壊れている人間もいるかもしれない。そのような人間をどのように修復するのか?
それは他人事ではないように思う。
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自己とは何か?
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