理想を語れば…交流試合を終えて
本日は交流試合だった。
長時間の交流試合、遠方から参加しているにもかかわらず、最後まで試合場に残ってくださった方々には、頭が下がる思いだ。また、関係者の方々には、本当にお疲れ様、ありがとうございました、と言いたい。
今回、コートを1面にしたので、途中、トイレと判定の問題で、何試合かを見逃した以外、ほぼすべての試合を見ることができた。その様子は、勝敗はさておいて、参加選手の成長と頑張りに目をみはるものがあった。
【判定には口を挟まないこと】
実は私には、特に意識していたことがあった。それは、「判定には口を挟まないこと」だ。事前に荻野審判長にも申し合わせていた。
「荻野審判長にすべて任せますよ」。私は電話で告げた。しかし、その約束を反故にし、口を挟んでしまった。試合後、審判長には誤ったが、どうしても反則の取り方に疑義が生じたのだ。
断っておくが、私には荻野審判長ほどの審判経験も技術もない。
荻野審判長は本当によい塩梅で判断を下す(様々な場面で…もちろんミスジャッジもあるかもしれないが、それはワールドカップサッカーなどでもあり得ることだ)。荻野審判長の感覚は私にとっての癒しや自己の見直しとなる。
しかし、私はルール(原則)を誰よりも考えているという自負がある。私がルールというのは、「判断のための原則」と言い換えても良い。その「判断のための原則を明確にすることが、試合を公共的なもの、すなわち、選手と審判だけのものではなく、観客とも共有できるものと成すと、私は考えている。
その原則のキーは、攻撃技の実効性を判断する基準を可能な限り明確にすること。限定した競技の中で、反則(戒律)を明確にすることである。
なぜなら、反則が明確でなければ、技の限定という不自由から自由を掴み得る可能性が狭まる。なぜなら、そこには混沌の領域が広がるからだ。また、自由の質が落ちるであろう。とても抽象的な言い方ではあるが…。
さらに、反則を明確にしなければ、汚い言い方だが、「やったもん勝ち」になる。また、反則すれすれの行為を追求するというのは、不自由からの自由を掴み取る行為ではない。また、創造的行為でもない。それは、ただ勝ちが欲しいだけの餓鬼の様子である。さらに言えば、反則を明確にしなければ、選手のみならず、その競技を愛好する観客をも冒涜することになると思う。
私が何を言いたいかは、あらゆるスポーツのごく一部の人には理解していただけると思っている。強いてあげれば、ラグビー(早稲田)の大西鉄之助先生(故人)には…。
もし、スポーツが反則行為と非反則行為のボーダラインぎりぎりの領域を許容するものだったとしても、私は反則ギリギリの道を行けとは教えない。ここは表現が難しい…。
具体的には、荻野審判長は、昔の極真空手の審判方法を引きずっていて、軽微な反則を取らない傾向がある。おそらく、「1回ぐらいは故意でなければ許す」というスタンスなのだろう。それは絶対にダメである。故意と故意でない反則との判断基準は、単純至極である。故意でないものは、注意、1点(イエローカード)である。そして、故意のものは警告、3点(レッドカード)、または1回で失格もあり得る。基本的には、警告後、反則行為が見られれば、失格(負け)となる。また、イエローカードも3回続けば、警告(レッドカード)となる。つまり、注意も2回、3回と続けば、限りなく故意と同等の反則と見なさざるを得ないということだ。
【なんでもありだからこそ原則を踏まえなければ、ドツボに嵌る】
私はスポーツも社会生活もコンプライアンスの徹底が必要であると考えている。また「武道はなんでもありだ」という方がいるとしたら、それは間違いである。
実戦も「なんでもありだからこそ原則を踏まえなければ、ドツボに嵌る」
私はそのように考えている。この部分は、まだ詳しく書かない。あえて少しだけ書けば、「相手がどのような原則で動いているかを洞察すること」が、私のいう「原則を踏まえるということ」に包含されている。これ以上は機会を待ちたい。
断っておくが、ルールや法の設定を絶えず見直すという原則の原則のような考えを有し、かつそれを担保するという前提があっての原則(ルール)ではあるが…。
【理想を語れば】
理想を語れば、究極、行き着くところまで行ったら、ルールを変えれば良いのだ(リプログラミングすれば良い)。
なぜなら、我々人間は、ルールの奴隷のような立場ではなく、ルールを活用するという立場をとらなければならないと思うからだ。
それには、もっと本質的なことを考えなければならない。
【荻野審判長や秋吉師範代に謝りたい】
話は変わるが、今回、反則の取り方意外にも、中段への攻撃のポイントの取り方についてミスリードがあった。これは、私の責任である。競技ルールの記述に問題がある。荻野審判長や秋吉師範代に謝りたい。
実は、初めて試合を経験する少年たちや会員にフルコンタクトの体験を積んでもらいやすくするため、サポーターや防具の装着状況の違いにより、ライト(ライトはヘッドガード、胴用チェストガード、スネ、膝、拳サポーター着用)とミドル(ミドルはヘッドギアーとスネ、膝、拳サポーターの着用)に分けた。ちなみにフルコンタクトは、サポーターの着用なしというものである。
今回、私が失敗したのは、ライトコンタクトルール( IBMA)に、中段の効果を加えたのだが、突きと蹴りとの違いを記述できなかったことだ。
参考までにルールブックの文言は以下の通りだ
「中段及び上中段有効打突・箇所に、連続して2本以上、有効打突が認められた時。 ただし、遠間、中間から飛び込んでの打突でなければ、有効と認められない(近間での中段への打突を除く)。
私の記述ミスは、上中段と中段への突きは、飛び込んでの突きとするのは良い。しかし、蹴りは飛び込まなくても、「空手の場合、蹴りの当たる間合いがすでに中間(ミドルレンジ)である(伝統空手の試合は遠間が基本かもしれないが…)」という規定が記述されていない。
補足すれば、膝蹴りなどの蹴りは、近間での攻防において繰り出すか、クロスカウンターなど、なんらかの歩法、体捌きなどににより間合いをコントロールして出すものだ。
また、極真空手においては、前蹴りや廻し蹴りなどの蹴りを、わずかな重心移動で相手に蹴りを当てられる間合い(上段廻し蹴りも含む)を基本とすると考えている。それを中間と私は考えている。
とするならば、蹴りに関しては、飛び込み(ステップイン)がなくても的確に入れば、ポイントをとらなければならないと思う。さもなければ、防御&反撃(ディフェンス&カウンター)の技術の養成と評価という、ライトコンタクト特有の目標が達成されない可能性が高くなる。
これは、私の完全に私の記述ミスだ。ただし、試合の結果を見て、このルールについては審判員と協議し、再考したい。
今回の問題は、先述のルールがあまり機能しなかったことだ。
平野主審は中段のポイントをとっていたように思うが…、勇気が必要だったにちがいない。
【選手の能力は、限定によって向上する場合が多い】
私の考えは、選手の能力は、限定によって向上する場合が多い。ゆえにルールとは、向上させたい能力が何なのかを見極めて、設定しなければならない。ゆえに、時代とともに変化、修正しても良いものだというのが私の考え、立場である。
補足を加えれば、試合におけるルール設定において重要なのは、武術、格闘技としての普遍性と独自性を具有させることである。
【極真空手という基盤を共有しながら…】
ともあれ、極真空手を基盤に、ライトコンタクト、ミドルコンタクト、フリースタイルの3つの選択肢を用意したのは良かったのではないかと思う。
今後は、極真空手という基盤を共有しながら、幾つかのオプションにより、多様な武術的アプローチを可能とする修練体系を作りたい。
そのことにより、試合体験が各々の身体を掘り下げることに、より役立たつようになると考えている。
さらに誤解を恐れずに言えば、フリースタイルは、突き蹴りのみならず、瞬間的な「組み合い」を許している。私は、そのような試合方法によって、空手本来の護身的な技とその感覚を取り戻すのではないかと考えている。しかしながら、大衆というのは、いつもフォロワーであり、大きな力(流れのようなもの)が働かない限り動かない。
現在、わずかではあるが、フリースタイルを楽しんでいる道場生がいる。本当に嬉しく、ありがたいことだ。この芽を大事に育てたい。
また、ライトコンタクト、ミドルコンタクトの試合に臨んだ者も素晴らしかった。少しづつだが逞しくなってきている。中には、まだまだ稽古に対する姿勢が緩いのか、はたまた私の指導の至らなさか、今一歩の感が否めない者もいる。しかし、私はすべての人に、更なる成長の可能性はあると考えているので、稽古カリキュラムや指導法の改善を速やかに進めていくつもりだ。
【最後の仕事のつもりで…】
最後になるが、交流試合を支えたボランティアスタッフのみなさん、荻野審判長、審判委員、参加してくれた他道場の師範、生徒たち、そして少年部の保護者、家族の皆様、そして師範代の秋吉に感謝したい。
いつも理想ばかりを追う私を支えてくれて、本当にありがとう。
私は今、怪我で十分に動けない身体だが、必ず回復させたい。そして、最後の仕事のつもりで、本当に残したいもの、本当に伝えたいことを整理したい。
その上で、可能な限り長く、空手武道の仲間、家族として心に残るようになったら良いなと思っている。
【蛇足ながら…御免】
蛇足ながら、私は自身を反則行為を犯す弱い人間だという自覚の上で、後輩のために理想を語っている。
さらには、これからの人間社会は、コンプライアンスよりも、ルールに関するインフォームド・コンセントが重要になってくると考えている。
一方、いつの時代もそうだが、悪賢いものや、人間洞察に浅い、インテリ層の誘導に皆が身を委ねてしまうと危険性も孕んでいるとも考えている(その方が楽だから…)。また、強大な権力の構造や使い方を変えることは、困難かもしれない。でも、まずは一人から始まるのだ。
ゆえに悪い頭ながら、一人一人が全身で考えるということ。そしてそれを反映させるルール並びにシステムが必要だと、心の中で呻吟している(御免)。
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理想を語れば…
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