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Channel: 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
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稽古とは(メモ書きで御免)

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稽古とは(メモ書きで御免)

本日、私の道場の指導員講習会がある。ここ数週間、出張等も有り、ブログを各時間が捻出できなかった。今も、講習会の準備中である。
その中で、指導員に伝えたいことをメモ書きしている。その中のひとつを掲載したい。


ある時、私の道場の指導員が初心者に伝統技の意味を聞かれた。

指導員は、それなりに答えたらしい。後日、「○○技の意味を聞かれたので、このように答えました」「それで良かったでしょうか」と尋ねて来た。

私は、「意味を安易に尋ねたり、誰かが唱えた意味(概念)を安直に取り入れるのも、本来の稽古から外れていると思う」と応えた。
また「先ず、自分で考えろ」と応えた。応えた瞬間、ちょっと乱暴な応え方だと反省した。そして補足を加えた。

私は、「稽古とは、技の意味を深く掘り下げることだ」と補足した。ひとつ一つの技を丁寧に反復し、その中から新しい意味を発見する。

その過程で、ひとつの意味が段々とより高次な意味に変化し、より普遍的な意味、より本質的な意味に辿り着く。


そこに到達した処が「一即多、多即一」の境地だと考えている。
誤解を恐れずに、平易に言い換えれば、ひとつの技が応用の効く、汎用性の高い技に変換する。しかしながら、その汎用性の高い技は、初めのひとつの技とは同じように見えて同じではない。そのひとつの技はより高次な技、質の高い技として生まれ変わっている。

更に云えば、その技を体得しそれを応用し、新しい技の意味を創造していくことが稽古なのだ。
あえて付け加えるならば、道場稽古とは、教える側も教えられる側も同時に学び合っているのだ。つまり、指導する側も学び、稽古をする同志なのだ。
ただし、その意識、質が初心者とは異なることが望ましい。

口ごもったが、本道場の指導員は、技の巧拙はともかく、意識においては一般の稽古性より高く持たなければならない。そのように伝えたい。

そして、仲間がより善い方向性に向かうよう尽力、貢献するのが指導員、リーダーである。

私はそのように考えている。




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