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Channel: 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
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武道精神について 日誌2−3

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残念なことだが、武道やスポーツ関係者の不祥事で、世間が喧しい。
私は、一連の事件に関する考えを述べるのは、あえて控えてきた。

丁寧にまとめないと、皮相的な意見に留まってしまうと考えるからである。
もう少し、斯界の経緯を見守りたい。

しかしながら、2月1日、朝日新聞の朝刊に、「勝つのは大切だが、目的は自由の獲得、武道精神と決別を」との記事が、一面に掲載されていたのを観て、一言だけいいたい。

記事は、サッカー指導者のコメントであった。

私は、このサッカー指導者の考え方に共感する立場であるが、武道精神といって、武道哲学を十把一絡げで語るのは看過できない。

そもそも、武道という概念については、諸説ある。私が与するのは、柔道の創始者,嘉納治五郎が、提唱した武道の概念である。

その武道哲学の核心は、武術、闘争に内在する、原理や普遍性を修練者一人ひとりが、掴み取ることだと、私は考えている。又、その普遍性の把握を目指すところが、術ではなく、道という所以である。

さらに、柔道とは、そのような普遍性を基盤に、国際的な人間の育成と国家間の相互理解の進展を目的にして、創設されたと考えている。

先述のサッカー指導者が、「武道精神との決別を」と唱えるのは、日本の至る所に、武道精神なるものが継承されていると、このサッカー指導者は感じているからであろう。
しかし、その武道精神は、加納治五郎師範が提唱したものではない。それは、戦前、戦中の軍国主義に都合の良い、武道思想のことだと、私は考えている。

私が考える武道の究極は、人間探求と自由の獲得であり、先述のサッカー指導者と同様の価値を有するといっても過言ではない。
補足を加えれば、スポーツのみならず、武道の究極の目標は、自分を知り、あらゆる状況判断と行動選択を、自分自身でできるようになることだと思う。言い換えれば、自分自身で考え、決断する力を養成することだ。つまり、組織的な行動を強制するような考え方と、武道精神とは、本来、異なる。


「支配的な力に抗する、力が欲しい」。幼い頃、空手を習い始めた理由である。

「喧嘩に強くなりたい」「チャンピオンになりたい」「自分を信じる力が欲しい」「自分に負けない」「自分を磨きたい」、考え方には、変遷がある。しかし、その考え方の中核をなすのは、「自由の獲得」である。

このように書けば、「武道と言うのは、勝負とその哲学のことであり、負けないことも含めて、実践哲学である」「そんな観念的なものではない」といわれる方もいるに違いない。又、スポーツと武道は異なるという人もいるだろう。

しかしながら、私が共鳴する武の先達が観る、武の究極の境地も、自由自在の境地であった。
それは、意識的な“形”の次元から無意識的な“型”の次元(暗黙知の次元)に働きかけ、自己を自由ならしめ、かつ創造していくことである。

話を戻せば、先般の事件について、私も考えるところがある。いずれ、まとめたいと思うが、もし、その原因が、勝利至上主義の弊害だという人がいるとしたら、そこには反論しておきたい。

勝利を目指すことは重要である。勝負という価値がそこにないとしたら、武道やスポーツの価値は、半減するだろう。

ただし「真の勝利とは何か」、また「武道やスポーツの真の目的とは何か」ということを根源から考え直さなければならない。

大好きな柔道の山下先生が、こう述べていた。「最強の柔道家を目指すのではなく、最高の柔道家を目指すようにしなければならない」「それが、嘉納治五郎師範が目指した柔道であり、原点(柔道の)に還らなければならない」と。

「最高の柔道」とは、極真空手の分裂後、私が提唱した、「最高の空手の追求」の意と全く同じである。

昔、大山総裁に電話で呼ばれたことがある。その時、「極真空手を最高の空手にすることが自分の夢です」と、僭越ながら宣言したことを、昨日のように思い出す。

最後にこれだけは言っておきたい。空手や武道には、人と社会に貢献できる可能性を秘めている。ゆえに、これをきっかけに空手とは何か、武道とは何かを再定義し、その役割を自覚していくべきだと思う。


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