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Channel: 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
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傘がない

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【TS方式の試合】

 さて、昨日、1年がかりで構想したTS方式の試合が行われた。私の道場の師範代の秋吉を始め、黒帯有志が審判、試合参加と私の夢に協力してくれた。結果を正直にいえば、審判は70点、選手は55点である。合わせて割ると62.5点である。この点数が80点以上になれば、人前に出しても理解され、受け入れられるものになると予想している。だが、今回の62.5点は合格点だ、とも思っている。あとは、自分の40年以上の経験と研究の力を信じ、もう少し我慢するだけだと考えている。また、ここまで持って行くのに大変な苦労があった。師範代の秋吉の理解、そして黒帯有志の理解と協力があればこそ、と感謝している。

 あえていうが、TS方式は、私の武道哲学、そして、極真空手家増田章の全人格、そして魂がやらせていることだ、と言っても言い過ぎではない。また、完全ポイント制のTS方式は半端なダメージ制の極真方式を補完するものとなる。否、TS方式、すなわち増田空手メソッドを取り入れる、または真似しなければ、極真空手のレベルは上がらないと思う(そう言うと、ある者は攻撃し、またある者は耳を塞ぎ、また見て見ぬ振りをするだろうな)。

 断っておくが、増田式空手メソッドは、抽象的なものではない。現実的かつ合理的な訓練システムのことである。「僕もそれを意識していますよ」とかいう人間は、まだ、わかっていない。

 私の考えでは、人間を変えるには、その手段をシステム(文化)に落とさなければならないのだ。ゆえにシステム化できていないものは、メソッドではない。

 換言すれば、TS方式、すなわちヒッティングは、訓練システムであり、新しいスポーツなのだ。さらに言えば、人間を変えるには「スポーツ=ゲーム=システム=文化」というところまで落とし込まなければならない、と私は考えている。だが、流行にのって空手を行なってい人たちは、それを理解するまで至っていないだろう。私は今、絶対の自信があるとは言えないが、増田空手メソッドと優秀な若い黒帯を数人でも産み落とせれば、いつか必ず夢は具現化されると信じている。その時、この世に私はいないかもしれないが…。

【私は猫が好き】

 昨晩は予定の開催時間が長引き、選手、関係者、保護者ともに疲労困憊の帰宅だったことだろう。私も1週間ぐらい、競技規程の修正とイベントが上手くいくかとの不安感で、よく眠れない日が続いていた。だが、TS方式のみならず、極真方式で試合した選手たちにも良い試合があった。増田式空手メソッドを基盤に体力をつけ、極真方式を行うならば、極真方式も見違えるものとなる。正直言えば、胸をなでおろしながら帰宅した。すると、1匹の猫が家にいた。まだ赤ちゃんである。娘が猫の「里親探し」のボランティア活動から、赤ちゃん猫を貰い受けてきたのだ。それらの猫は引き取り手が見つからなければ殺処分されるらしい。

 実は昔、私は20年もの間、猫を飼っていたことがある。義理の妹は大きなシベリアンハスキー犬を飼っていた。私は犬も好きだ。だが、特に私は猫が好きである。特に性質が似ているなと感じるからだ。散歩にも連れて行かなくても良いところも良い。

 

【猫はとても臆病】

 イベントから一夜明け、メールを確認すると師範代の秋吉から写真と試合に関するフィードバックがあった。前向きなフィードバックだったので嬉しかった。イベントに関して、自分の至らなさに神経をすり減らしていたからだ。本来なら、私は人前に出たくない。人前で神経をすり減らしている姿を見せれば、秋吉の足を引っ張ると思うからだ。私は嘘がつけない。

 朝、新しく加わった家族の子猫のことが気になって見にいくと、まだ檻のすみで私のことを警戒している。独りでは生きていけない子猫は、母親猫や兄弟猫から引き離され、不安感があるに違いない。猫はとても臆病だ。私の妹もそうであった。人見知りが激しく手を焼いた。だが、歳を重ね、様々な人間の姿を見てくると、その姿が今、とても愛しい。小さい頃、親や家族から引き離される不安感。それは動物も人間の同じであろう。私にはそんな経験がない。しかし、そのような経験がある人間のことを思うと、胸に込み上げるものがあった。私にはまだ知らないことがたくさんある。また、恵まれていると。私には親がいた。また兄弟がいた。友達もいた。柔道や空手もあった。そんな中、井上陽水の「傘がない」という楽曲を思い出した。ここで少し井上陽水について書いて見たい。

【傘がない】

(省略)

 

行かなくちゃ君に会いに行かにゃくちゃ

君の家に行かなくちゃ雨に濡れ

冷たい雨が僕の目の中にふる

 

(省略)

 

行かなくちゃ君に会いに行かなくちゃ

雨に濡れて行かなくちゃ傘がない

 

 

(井上陽水〜傘がない、より)

 

 私の好きな楽曲、井上陽水の「傘がない」のフレーズからの抜粋である。私が初めて井上陽水の楽曲を聞いたのは中学生の頃、「氷の世界」だったと思う。その後、「人生が二度あれば」という楽曲を聞いた時、私は衝撃を受けた。その後は、熱烈なと言うものではないが、井上陽水のファンである。井上陽水の楽曲と歌声には、いつも心惹かれている。その中でも「傘がない」が、私のお気に入りである。

 ある時、偶然テレビをつけたら、井上陽水が自分の楽曲について語っていた。陽水は「傘がない」という楽曲について、自身が年を重ねて歌って見ると、様々な意味があるな、と感じるようになった、と語っていたと記憶する(自信がない)。おそらく、意味不明だとは思うが、増田流にさらに言えば、陽水は「傘がない」をそんな難しい意味を考え作ったわけではないようだった。けれど、ファンが感じる、様々な思いや解釈を知り、また、自分も年を重ね、自分の楽曲と向き合いながら、気づくことがあると言うことだった。テレビで見た井上陽水は、あまり理屈っぽいことを語ることが好きではなかった。自分の楽曲について語る番組だったようだが、控えめに、かつ照れ臭そうに自分の楽曲について語っていた。それが良いところだと思った。ここで僭越ながら、増田流の評論を試みれば、以下のようになる。

【評論〜「傘がない」増田哲学より】 

 この楽曲は、人は傘を欲するものだ。たが、傘がないと今、感じている人たちがいることだろう。だけど、僕は傘なんてどうでも良い。そんなことよりも、今、誰かがそばにいる事、そばにいてあげるということが大切だろ(いいことだろ)、と陽水は歌っているのだと思う。

 さらに言えば、今、雨に濡れながらも、やがて傍にいる人同士が傘を作っていく。そんなことも陽水の意味世界には含意されていたのではないだろうか。

 誤解を覚悟で言えば、この楽曲は在日として生まれた、井上陽水の体験と自己認識によるものではないだろうか。しかし、その体験による身体知には普遍性がある。つまり、そこには「人間の実存とは相対的でありながら”独り(個々の実存と尊厳)”のもの(絶対的なもの)」という矛盾的統一感の内在が見て取れる。

 そのような井上陽水の意味世界を独特のメロディーラインに載せて、この楽曲は表現されている。その全てが、井上陽水の身体知、言い換えれば、独自のセンス( 増田で言うところのSense/智・身体知)により「傘はない」は産み落とされたものなのだと思う

 

(ごめんなさい。井上陽水ファンに怒られるかもしれない。この評論はイベントを終え、久しぶりに熟睡でき、一息ついている増田章の妄想遊びである。解釈は個人的な解釈で間違っているだろう。だが、是非一度、インターネットで「傘がない」を聞きながら、私の評論を読んでほしい)

【大きな傘を作りたい〜「ナナ」と共に】

 話を猫の話に戻せば、我が娘には、いつも子猫のことを思い、そのそばにいなければならないという、責任を感じて欲しい。そのことによって、自分自身の存在が肯定され、自尊心を持てるようになる。そして、より大きな傘のような存在に感謝を感じるようになるだろう。

 私の夢は、増田空手メソッドを生かして極真空手を再生し、大きな傘を作ることだ。否、極真空手を大きな傘にしたいと思っている。そして空手を続ければ、いつも傍に仲間が入るよ、親がいるよ、と伝えたい。また、その夢を信じることで私の魂が救われるだろう。これからは猫の「ナナ」と共に暮らしながら、夢を信じて生きて行きたい。

 

 最後に、ちなみに猫の命名者は私だ。いつも家族全員からダメ出しばかりをもらう私だが、今回は家族から褒められた。

 

2019/6/24:夜に加筆修正しました。

 

 

 

 

 


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