護身とは何か?補足
昨日の護身についてのメモ書きに補足を加えたい。
昨晩は、ブログを書くのに時間がかかり過ぎたので、途中で止めた。
しかし、重要なことをメモしておかなければならない。
私が考える、護身を考え、護身技の修練の意義は何か?なぜ、護身技を修練するか?
【なぜ、護身技を修練するか?】
極真空手は、誰にも解り易い、シンプルな稽古体系を有する(大雑把すぎるくらい)。
一方、我々が伝統基本と呼ぶ基本技の種類はかなりの数になる(非常に多様である)。
例えば、正拳、裏拳、手刀、肘、中足、背足、足刀、膝等々、人体の様々な部位を用いる。そしてそれらの部位を、突き、打ち、蹴り、蹴り込み等、様々な操法で技を創る。そして、それらの技を基本として稽古する。
ボクシングなら、ストレート、フック、アッパー、ジャブ等のパンチとそのデイフェンス等の訓練が基本となる。空手に置換えれば、正拳という部位を用いた突き方とその受け技の訓練のみを基本として訓練するということだろう。ボクシングは良い意味で空手よりシンプルだ。
また少々脱線するが、ボクシングは、フットワークを重視するので、そこにフットワークと体さばき(武道でいう)の訓練を重視する。極真空手が弱いのは、そこである。私の流派では、運足(フットワーク)と体さばきを基本修練に入れている。しかしながら、組手法に瑕疵があるのでそこが意識されない。
話しを戻せば、極真空手の伝統基本の稽古は、すべて実施すれば、30分程の稽古時間を有する。また、初心者が全力で行なえば、それだけでふらふらになるだろう(良いエクササイズだということでもある)。
私が初心者だった頃、基本稽古からすべてを全力で行なっていた。私が手を抜かなかったのは、基本稽古が強い技を創るための身体操法の基礎を作ると考えていたからだ。また、体力があったからかもしれない。
さて、もし現在、伝統基本の修練意義をとわれれば、「普遍性の探求」というキーワードを私は用いるだろう。また、極真空手が多くの伝統基本を有するのは、本来、護身を意識して空手修練を考えているからだと、補足を加える。
にもかかわらず現実は、極真空手が普及すればする程、伝統技の修練は隅に追いやられた。そして、技を限定し勝負判定も曖昧な試合、組手を稽古の中心に据えるようになっていった。
乱暴な言い方になるが、そんな稽古なら、いっそ伝統技をなくし、伝統型もなくしてしまえば良いという考えが生まれてくるのは当然だろう。
【組手法の改善~フリースタイルカラテ】
しかし、私は伝統技を大事に考え、伝統型も活かしたいと考えてきた。また、武術の訓練としては、瑕疵がある組手法を改善したいと考えて来た。
そのような思いの萌芽、結実が「フリースタイルカラテ」という新しい組手法、競技法の確立であった。しかしながら、その木は、小さく、果実も見た目が旨そうには見えない??。ゆえに誰も手に取ろうとはしない。
私は、「フリースタイルカラテ」という新しい組手法・競技法を、空手が本来重視した、倒し技や関節技への対応の基盤となると確信している。
しかし、「フリースタイルカラテ」という、徒手格闘の技を用いた自由攻防の訓練法を充分に機能させる基盤の確立には、かなりのコストがかかるだろう。
ゆえに、「フリースタイルカラテ」の確立に全力を注ぐとなると、相当な無理をしなければならない。実際、私はかなりの時間と資金を投入した。
本来は、ランニングコストを生み出すような仕組みを考えてから、プロジェクトをスタートするべきだったが、急ぎ過ぎた(実は理由はあるが・・・)。
ゆえに、新しい武道競技としてのフリースタイルカラテは、ひとまず棚に置こうと考えている。断っておくが、来年の9月に大会をフリースタイルカラテの第3回目の大会を予定している。だが、わたし独りの力では続けられないと考えている。今わたしは、大会規模を、さらに小さくしても良いとから、本気でプロジェクトに取り組んでくれる同志を求めている。誤解を恐れずに言えば、それ以外の人とは絡みたくない。また、私は粘着質な面もあるが、実はあきらめが早い。実は、他者を3回以上、口説いたことがほとんどない。(営業マンやストーカーではあるまいし、当たり前か・・・笑。私は充分にしつこい性質かもしれない・・・笑。只、例外のひとつに、我が子供達への「勉強(学問)のすすめ」がある。本当はすべての道場生に言いたいが、我慢している・・・うるさがられると思うから・・・)。
なぜなら、人を口説く、そんな面倒くさいことは私の最も嫌いなことのひとつだからだ。また、瞬間的な閃きを共有する感性と、勇気がない人とは心友にはなれないと思っている(だから、時々人に騙される・・・笑)。私の心友は皆、勇気がある人達ばかりだ(私のようなゲテモノを食べる人達だから・・・笑)。ゆえに、新しい武道のアナウンスをし続けるのは、私の趣味ではない。はっきり言おう。苦痛でしかない。しかし、それを愚かだと思いながらも、やり続けているのは、極真空手をもっとレベルの高いものにしたいという思いと、私には、それを実現する能力と可能性があると信じているからである。
とは言うものの、道は茨だらけだ。ゆえに、ひとまず原点に返り、現在のカラテ愛好者(私の道場生を含む)に「カラテ修練の本来の姿とは何か?」という問いかけを行いたい。言い換えれば、空手修練の意義・意味を考え直そうというアプローチを行なうということだ。
そのようなアプローチをしながら、その答えを生み出す手段、仕組みをつくりあげることを、1秒でも速く成し遂げなければならないと私は考えている(宝くじが当たればなあ・・・笑)。
【新しいアプローチ手段~拓真道流・空手武道】
新しいアプローチ手段、それが拓真道流空手武道(TSK)の創出である。そして、その鍵概念のひとつが「護身」なのだ。しかし、新しい武道は「護身」の大看板を掲げはしないだろう。
新しい武道の鍵概念(キーコンセプト)は、「捕り」である。ここでいう「捕り」とは、「自他の損傷を最小限に抑え、相手の戦闘力を奪う」ことだ。
私は、「捕り」という鍵概念(コンセプト)は、日本武術として最高レベルの概念だと思っている。それを超える概念には「相抜け」や「無刀」というような概念もある。しかし、カラテ家として、先ずはより多くの人が、実践、共有できるレベルの修練基盤を確立したい。
正直、身体が持つかは解らないが・・・。これで果てても臨むところだ。むしろ、このまま自分の内側から沸き上っている問いに、誠実に向き合い、それを昇華するのでなければ、今までの人生が無のように思えてくる。
私は今、「制圧」や「護身」という目標を見据えた、空手武道の修練基盤の創出を目指している。しかし、制圧のプロ、武術のプロを養成することを大目標にする訳でないということを断っておく。
あくまで、制圧・護身を目標とすることで、様々な格闘技術に内在する「普遍性」を探求するということが拓真道流空手武道の眼目である。
言い換えれば、「理合(道理)の探求」を通じ、自己の心身、自他の関係性に内在する「普遍性」を感じ取ろうというものだ。
但し、極真空手の伝統技そのものを変えることはしない。なぜなら、そうすれば、現在の弟子達は戸惑い、ついて来られなくなるのは眼に見えているからだ。ゆえに、極真カラテ伝統の修練体系は、なるべくそのままにする。その上で、それらの技を応用し発展させられる、新たな修練システム(OS)を創るということだ。
つまり、極真空手の伝統技をそのまま引き受けられ、かつ他の有益なものを包摂・融合していけるようなシステム(体系と基盤)を創りたいのだ。それが柔軟で開放的な新しいOS(オペレーティング・システム)としての拓真道流・空手武道(修練システム)だ。
拓真道流・空手武道には限定された乱取り修練はあるが、試合修練はない。もし、試合や格闘スポーツを体験したければ、アプリーケーション・ソフトのように、フリースタイルカラテ(武道競技)を個々人が選択、導入すれば良い。
私は、道場生が、OSとしての拓真道流・空手武道を採用してくれれば、極真空手を活かしつつ、様々な格闘技、武術を取り入れていくことができると考えている。
それに伴い、各々のハードディスクの増量のような面がでてくることは必然だ。おそらく、そのような体力や時間の余裕はないと思う者もいるに違いない。しかし、私が考えているOSを導入すれば、これまでの半分以下の労力と時間で様々な格闘技のエッセンスを学ぶことができるようになるはずだ。
また、私の考えでは、あらゆる人にまだまだハードディスクの容量は残されていると考えている。只、空手武道を本当に面白いと感じていないのと、武道の奥深さを知らないだけだ(容量はあっても、他のことに使いたいと思っているだけだと思う)。
補足を加えれば、大山先生の空手は護身技のみであった。その著作の秘伝極真空手、続秘伝極真空手の2冊を見て頂きたい。そこには、頭部打撃、掛け、倒し、関節技、ステッキ術、さらには寝技まで。あらゆる徒手格闘術が網羅されている。
私は、それらの技の修練を実践できる修練体系(OS)を確立することが、我が極真空手道を活かす道だと考えている。
但し、時代の雰囲気は変わっているから、昔のようなアプローチや手段では、敬遠されるに違いない(例えば最強の○○とか・・・)。また、そんな訳の解らない記号に踊らされる人達(お前もそうだと言われるに違いない)と絡むのは、少々きつい・・・。
ゆえに、安全を確保し、5才から90才までが、ワンラインで実践できる手段でなければならない。そしてその核心は、知的好奇心の充足だ。難しく言えば、「個々の心身に内在する知性の開拓と充足」である。
私がワンラインと例えるのは、5才から90才まで基本は統一しつつ、修練の量や強度に緩やかな漸進性を持たせることだ。そして、時間をかければ誰でもすべての修練を無理なく体験できる様にしたいということである。例えば、初心の時は極真空手、極真空手の基礎が身に付いたら、少しづつに「捕り」や「護身技」を習得していく。
また、その修練プロセスにおいて、「護身とは護心である」ということを伝えたい。言い換えれば、稽古に取り組む姿勢、心構え、生活の仕方まで、常の心の状態を整えることが「護身」裏にあるということを感じ取ってもらいたい。また、私の考える護身には、健康管理も含まれる(その点について私は、これまでの生き方を反省、改善しなければならなかもしれない)。
また、自我の非力を知ること。そして、一方的な力の追求ではなく、自他と連関している「真の自己」の力を開拓すること。言い換えれば、自他の関係における、力の動きや働き(眼には見えないが)を感じとり、それを活用するような武道修練システムを確立したい(拓真道流・空手武道の武道理論はこれから纏めたい)。それが人格形成の地盤・基礎となるはずだ。
【護身の極意】
最後のメモ書きになるが、暴力になるべく遭遇しないようにすることが護身の極意だ。つまり、自他の関係性のみならず、自然に内在する暴力の臭いや音、気配などようなものを、感じとる感覚を研ぎ澄ますことが、一番大切である。
また、そのような感覚を、書物からではなく、心身の修練によって育むこと。さらには、人間社会における暴力の抑制に多少なりとも貢献していくことが武道人の本義であると思っている。
私は、そのような武道を、一人でも多くの人に伝ええていきたい。
2014-9-9誤字等、一部修正
合抜け→相抜け
2014-9-10 一部修正
他
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護身とは何か?その2〜補足
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